批判 と中傷という言葉の区別が曖昧になって久しい。
近頃ではついに、自分が受けた批判は中傷で自分が行った中傷は批判であるといわんばかりの御仁が散見されるようになり、彼の国ではその元祖のような男が大統領に返り咲いた。
そのような了見は人を敵と味方に二分せずにはいられないし、支持者もそれを共有することになる。しかし、二者択一を迫られる状況において、多くの場合、両方ともハズレだと、私の人生経験は教える。
著者が批判するミルトン・フリードマンの理論的誤謬やイマヌエル・カントが否定した信任法を法と倫理の統一理論によって肯定するといった研究の集大成は、軽々しく論破 などという言葉を使わずとも、読むものを著者の開拓した地平へと連れて行き、その景観を楽しませてくれる。久しく味わえなかったな、この感覚。
40年ほど前 彼が貨幣論を引っさげてMITから帰国した際、栗本慎一郎も柄谷行人も、一撃でその居場所を失ったと思ったほど強烈なインパクトだった。現に柄谷行人は価値形態論から交換形態に対象をシフトしたし、栗本慎一郎は今で言う陰謀論やライアル・ワトソンのようは似非科学へ暴走し始めた。
東日本大震災の時に彼が 学術界をまとめ上げて 政府に提言をするプランを発表した時には、これで日本は変わるかもしれないと本気で自分は期待した。
常に彼の研究を追いかけていたわけではないが、今彼の集大成のようなこの本を読むことができることが、嬉しい。研究対象こそ貨幣→法人→信託へと変遷したが、変わらないために変わり続けたことが、長く同じ時代を生きたからこそよくわかる、なんてナマイキなことも感じてしまう。
30年前にバブルを卒業した今の日本で、お金を神だと妄信している人は、見下されて当然だ。
しかし、現在の地球で、お金こそは最も神と呼ぶに相応しい存在であることもまた確かで、そこから始めないと「神は死んだ、私が神を殺したのだ」と、新たな時代を宣言することはできない。