コロナで高熱が続く間は、夏目漱石の「こころ」の朗読を聞いていた。
最初に「こころ」読んだのは高校の教科書だった。荒れた工業高校だったので、ろくに授業を聞いてない生徒が多い中、寝ていた太郎くんが突然、顔を上げ「まじかっ、Kは死んだのか?」と叫んだ。
中年のチンピラの風格が漂う太郎くんの、掴みかからんばかりの勢いに若い女性の先生は身の危険を感じたかもしれない。
「おい、まじか?Kは死んだのか?」と太郎が私に聞く。
「ん、ああ、死んだよ」
授業中は黒板に背を向けて友人とバカ話をしていることが多い私を、先生が試すように質問した。
「Kはどういう人?」
「向上心の無いやつはクソだとかいう、いけ好かない野郎」と答えたら、先生が少し意外そうな顔をして「クソではなくてバカですね」と正された記憶がある。
次に「こころ」を読んだのは、30歳の頃。片道2時間弱の長距離電車で通勤した2,3年、私の人生でいわゆる文学作品はこの頃に集中して読んだことになる。漱石山脈も尾根伝いに歩いたが、手元に残っているのは内田百閒くらい。その後、小説率はもとの数パーセント程度に戻るので、つくづく小説には適性がないらしい。
「読む年齢に応じて感想が変わる」と聞くが、体験するのは今回が初めてのこと。半醒半睡で聞く「こころ」は「先生」の未熟な振る舞いに随所でイライラした。
イライラを感じると直後に漏れなく「そうせざるを得なかった」理由を並べて読者の感情移入が離れるのを妨ぐあたり、さすがだなと感心した。
60歳の今「こころ」を読む(聞く)と、自殺する先生の遺書と作者の漱石先生の教育的意図がよくわかる。何を教えているかというと、明治まであった倫理と、その倫理に基づいたオトシマエの付け方だ。
漱石先生は当然、失われていくことを予見して書いたのだから、「今は当時の倫理観は失われて、作品としての意味をなくした」と片付けるのは簡単だけれど、漫画やアニメに見られる主人公の「葛藤」は、意外と現代に至るまで片付かない、明治のDNA(怨念)なんじゃないのかな、なんて思ったり。