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理想の小説像

こんばんは、古間木紺です。
9月なのに暑いですが、なんとかやっています。

先日、さいかわ葉月賞の結果発表がありました。ありがたいことに最終選考には残れたのですが、受賞には至らず……という結果でした。

残念だったなぁという気持ちと悔しい気持ちなどなどがごちゃまぜになりながら、大賞発表ページと最終選考者への感想ページを読んでいたんですけど、そのときに、新たな理想の小説像ができあがりました。
全作品のいいところをまとめるときにはもうありましたけど、言語化できたのはそのタイミングだったと思います。

それまでは、この話・テーマが欲しい人に届け!という思いで小説を書いていました。光を必要な人に届けるための灯台でありたいと思いながらの創作です。
それはそれで悪いことではないと信じてるんですけど、私においては、その光がひとりよがりになってはいないか?とも思うのです。

大賞受賞者のページにて、読者に寄り添ったスピード感についての言及がありました。それを読んだときに、ああ考えたことなかったな、と感じました。

欲しい人に届いてほしいという思いはあるので、読みやすさにはかなりこだわっています。ただ、読みやすいからといって、読者の心の奥底に残るわけでもないんだろうな、と思います。

例えば、文章や構成の読みやすさへの工夫は、灯台のメンテナンスしっかりやってますよ、みたいな部分だと思うんですよ。
読者へいかに寄り添うか、の部分は、灯台の光の量(まぶしさ、など)が適切であるかどうか、なのかなと思います。
毎日朝も夜もメンテナンスしているけど、めちゃくちゃ明かりのきつい灯台は、正直使いづらいじゃないですか。

どっちも大切だけど、方向性がそれぞれ違うので、どちらかだけでもダメなんだろうな、と思います。
途中で比喩が消えますけど、メンテナンスはあんまりだけど、光の質感はちょうどいい、みたいなのは最後まで読んでくれるかは分からないし、メンテナンスできちんと管理されていても光がなんだかな、というものだと、最後まで読んでもらっても、うん、よかった、で終わりそうですよね。

自分との対話みたいになりますが、必要な人に刺さってほしいというのは、ただ、こういう話よかった、で終わることではないはずなんです。誰かの心を揺さぶったり、えぐったり、奥底にしまってほしかったりするはずなんです。

そう言語化したときに、理想の小説像が浮かんできました。
それだと、読者の好みを反映させているだけじゃないの?と思うかもしれません。
ただ、私は書きたいテーマがあってカクヨムで活動しているのと、そうでなくとも書きたい話を書いているので、その心配はないような気がします。

私のコンセプトや話に共感できる読者のことを考えた物語づくりができるよう、これからも書き続けていこうと思います。

※技術面の課題もあるので、そちらも勉強していかなきゃですけどね……!

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