【慶応二年の船出から】篇
「〈首なし〉の部屋①」
尾籠なお話ですがあたしとて、小用くらいはありますから、まずはそれを済ませて気を落ち着かせました。
あたしは酒は弱くはないんですが、娘軽業綱渡り、芸にさわりがあっては危ない、と、最初の祝いの乾杯のときも、回ってきたシェリー酒はなめるだけで、一座の酒好き、宮千代姐さんに預けちまったくらいだったんですが、それでも水物は取りますから近くはなりまさあね。
しかし愉快に飲み明かす宴だというのに、そんな用向きの時にも誰とも鉢合わせないのが、たしかに親方の言う通り、妙な按配だとあたしも思いました。
みなさん、どちらへおいでになったんでしょう。
表は嵐ですから、まさか外の風に当たりに行ってそのまま波にさらわれて、なんて間の抜けたことはありますまい。
時々、船は揺れましたが、あたしは日頃の鍛練で、よろけることもなくあちこちを歩きました。
カードやサイコロ遊びなどをする遊技場も、軽食堂も、誰もおりません。
お部屋へ戻っていらっしゃるのでしょうか。
あたしの足は、そちらへ向きました。
それぞれのお部屋にいちいちお邪魔するわけではありませんが、誰かはお顔を出しやしまいか。そんなことを念じておりました。
「お佐登くん」
そのとき、出し抜けに後ろから声がしました。
どなたかの、ようやくお顔を見られるかと振り向けば。
「伯爵様」
一人で飛び出したあたしをご案じになって、追ってこられたのだそうで。
「私も、どうも妙だと思ったのですよ」
伯爵様までそんな風に仰せになる。
* *
どうも、あたしが広間を出てからも、どなたか見えなくなったらしいんです。
「そんな」
あたしは首をかしげました。
だって、これだけうろついていたのに、広間からどなたかが出てくるところを、とんと見なかったのですから。
「扉を叩いてみてはどうかね」
そういたしましょう。
N夫人のお部屋の前に来ました。
戸を叩くというこちらの礼儀を頭のなかでさらいながら、軽やかに二度叩きました。
お返事がありません。
「鍵はどうかね」
伯爵様が、鍵の検分をして戸をやかましくするのは、やんごとなきお方のこと、手ずからはされないでしょう。
わざわざこう申されたら、旅芸人のちびすけである、多少の粗相は若輩ゆえに目こぼしもあるだろう、あたしの出番でございます。
「ありゃ」
開きません。
お隣の部屋も、そのお隣も、同じことでした。
「みなさん、お疲れが出てお休みになったんでしょうかねえ」
「そうだねえ」
そうして首をかしげて伯爵、
「お佐登くん。ここはもうひとつ、確かめようじゃないか」
「よしきた」
その扉は、〈首なし〉の使っていた部屋です。
「でも〈首なし〉の親方は、広間にいると思いましたがねえ」
「だからこそ、ですよ」
何やらお企みがあるようなことを申されますので、あたしはちょいと、ヒヤリとしましたよ。