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【先行公開】「空気伯爵と綱渡り人形(第19話)〈慶応二年の船出から〉篇」


【慶応二年の船出から】篇

「〈首なし〉の部屋①」


 尾籠なお話ですがあたしとて、小用くらいはありますから、まずはそれを済ませて気を落ち着かせました。
 あたしは酒は弱くはないんですが、娘軽業綱渡り、芸にさわりがあっては危ない、と、最初の祝いの乾杯のときも、回ってきたシェリー酒はなめるだけで、一座の酒好き、宮千代姐さんに預けちまったくらいだったんですが、それでも水物は取りますから近くはなりまさあね。

 しかし愉快に飲み明かす宴だというのに、そんな用向きの時にも誰とも鉢合わせないのが、たしかに親方の言う通り、妙な按配だとあたしも思いました。

 みなさん、どちらへおいでになったんでしょう。
 表は嵐ですから、まさか外の風に当たりに行ってそのまま波にさらわれて、なんて間の抜けたことはありますまい。
 時々、船は揺れましたが、あたしは日頃の鍛練で、よろけることもなくあちこちを歩きました。
 カードやサイコロ遊びなどをする遊技場も、軽食堂も、誰もおりません。
 お部屋へ戻っていらっしゃるのでしょうか。
 あたしの足は、そちらへ向きました。
 それぞれのお部屋にいちいちお邪魔するわけではありませんが、誰かはお顔を出しやしまいか。そんなことを念じておりました。

「お佐登くん」

 そのとき、出し抜けに後ろから声がしました。
 どなたかの、ようやくお顔を見られるかと振り向けば。

「伯爵様」

 一人で飛び出したあたしをご案じになって、追ってこられたのだそうで。

「私も、どうも妙だと思ったのですよ」

 伯爵様までそんな風に仰せになる。

   * *

 どうも、あたしが広間を出てからも、どなたか見えなくなったらしいんです。

「そんな」

 あたしは首をかしげました。
 だって、これだけうろついていたのに、広間からどなたかが出てくるところを、とんと見なかったのですから。

「扉を叩いてみてはどうかね」

 そういたしましょう。
 N夫人のお部屋の前に来ました。
 戸を叩くというこちらの礼儀を頭のなかでさらいながら、軽やかに二度叩きました。

 お返事がありません。

「鍵はどうかね」

 伯爵様が、鍵の検分をして戸をやかましくするのは、やんごとなきお方のこと、手ずからはされないでしょう。
 わざわざこう申されたら、旅芸人のちびすけである、多少の粗相は若輩ゆえに目こぼしもあるだろう、あたしの出番でございます。

「ありゃ」

 開きません。

 お隣の部屋も、そのお隣も、同じことでした。

「みなさん、お疲れが出てお休みになったんでしょうかねえ」
「そうだねえ」

 そうして首をかしげて伯爵、

「お佐登くん。ここはもうひとつ、確かめようじゃないか」
「よしきた」

 その扉は、〈首なし〉の使っていた部屋です。

「でも〈首なし〉の親方は、広間にいると思いましたがねえ」
「だからこそ、ですよ」

 何やらお企みがあるようなことを申されますので、あたしはちょいと、ヒヤリとしましたよ。

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