【町のすみっこ】篇
「町のすみっこ①」
こうして娘軽業が嵐の晩、猫踊りで海を渡っていたことなど誰も存じ上げません。
それどころか、あれに見えてくる岸は江戸からは遠い、西欧国はイングランドでございます。
ごらんなさい、荒れた海は静まり、白々と夜が明けます。
日が高くなり、街角では小冊子売りや新聞売りが、鐘やらフィドルやらを弾き鳴らし、ご傾聴(ヒア)、ご傾聴(ヒア)! いつものやかましさです。
「消失! 消失! 船のかけらひとつ流れてきやしない! 神隠しときたもんだ!」
「いやいや、ただの事故さ、にわか金持ちのうぬぼれに天罰さね。
誰か潜れば、ひと財産丸儲けじゃないのかねえ」
海の向う、フランスはパリの万博でひと山当てたという山師連中が昨夜、豪華な客船での祝いの集い、浮かれていたところを嵐が襲い、跡形もなくなったと申すのです。
みな、きれいな金でも汚い金でも金持ちはきらいですから、連中の不幸には拍手喝采。不謹慎にも事故をからかう歌をこしらえて歌う者までいたそうですが、それにしてもあまり下手だったので追い払われたそうでございます。
「海か」
町中に散らばる、くず拾いの子供たちを取り仕切る、この赤毛の大女がつぶやきました。
身の丈は六フィートはありましょう。肩幅も広く、腕も脚も太くたくましい。この身体ではドレスなんぞの贅沢な布はいくらあっても足りやしないと、衣服はいつも乗馬服だとか。コルセットなど、着けたことなどあるのでしょうか。
そんな身なりのせいもあってか、故郷(くに)では足蹴り競技(サバット)の名手で男だろうが女だろうが相手がいない、との噂までありました。赤毛はみごとな巻き毛で、それをくるくると巻いて、ざっくりとピンと櫛とでまとめている。
今はマーガレットと申しておりますが、故郷ではマルグリットと呼ばれておったそうで、いずれにしろ欧州のあちこちをさすらってののち、当地へたどり着いた模様。頬に深い切り傷跡もあり、なるほど、子供たちに害を与える者も、これなら怖れて離れることでしょう。いつも左手首にある腕輪も、彼女のもの、となれば、なんとなく武具に見えてくるのです。
「荒れたからなあ」
「姐さんは、船に乗ったことあるのかい?」
一番ちびのジャックが鼻のあたまを黒くして尋ねます。
「ああ、そりゃあね」
マーガレットは隠しから、ぼろではあるけれど洗濯したばかりの手巾を出し、拭いてやりました。
「陸をめぐって、海に出て、それでもあの女、あたしからは隠れてやがるんだ、見つかりやしねえ」
「あら。実の姉さんがいるなんて、すてきじゃないの、姐さん。あたし、うらやましい」
このところませてきたエリーが言います。
食事の前に髪を直そうとして、うまく編めないようなので、マーガレット、これもひょいひょい直してやります。
「やっかいな姉さんじゃなけりゃねえ、もっとありがたかったがね。
よっぽどおまえたちのほうが、どんなにありがたいかしれないねえ」
いつもの繰り言、子供たちは柳に風。
「それよりお前たち、今日はよくやったよ」
ねぐらでは、めずらしく焚きものがどっさり焚かれて暖かです。
「ご褒美がいただけたのかね、姐さん」
「ああ。だから今日は、たんとお上がりよ」
テーブルの上には、ぐつぐつと音を立てているいつもの大鍋です。いつもはくず野菜のかけらがお湯に浮いているだけだというのに、今晩はそこに肉のシチューが入っているというではありませんか。籠の中には丸パンが山となっています。しかも白パンです。