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第十六話 十重禁戒について

「自讃毀他戒」を「自分にプライドを持って、他人を傷つけないようにすること!」って言った人、だーれだ?

はい、それは私です。
衛門がかいた赤っ恥は、以前に私がかいた経験談です笑
文化センターの仏教講座での出来事でした。大爆笑されました。

今回、「自慈心」という言葉を使いました。
これは昨今、マインドフルネスの観点から言われる言葉で、自己肯定感を高めるための概念のようです。
心理学的なアプローチから生まれたそうなのですが、その起源が仏教にあるとか。ですが、自慈心という言葉は仏教由来ではないようで、『WEB版浄土宗大辞典』にもなかったです(圧倒的信頼感)
今回「自慈心」なる定義を、まるで検校の創造語であるように表現させていただきましたが、実際は上記の通りです。
悪しからずご承知おきいただけすようお願い申し上げます。

また、「十重禁戒」の話を、おかしな展開にしてる、と不快に思われた方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げたいと思います。

実は、ごく私事で恐縮なのですが、このエピソードの展開を迷っていた頃のことです。
通り一遍に言葉の説明にするか、もう少し何か引っ掛かりをを作れないか、と考えていた折、身内の葬儀を主催する側に立つことがありました。
導師の方に唱えていただいたお経に「十重禁戒」があったのですが、「おや」と思いました。すでに故人なのに、なぜ「十重禁戒」?と。
よく考えればおかしくはなく、故人は戒名を授かった(受戒した)ので「十重禁戒」をいただくのはむしろ正しいのだ、と。
現代に生きる私たちは受戒することがあるとすれば、ずっと先の話だと思いがちですが、本来は生きている内に授かるもの。あべこべだな、これが現代の葬式仏教と呼ばれる所以なのかな、と感じたのですが、同時に腑に落ちたところもありました。
端的に言えば、宗教の有り様は時代によって変遷するものだと。
さらに言いますと、王朝物語的観点からしても、平安時代ですら、すでに、末期の床にて受戒することは日常的に行われていました。

ですが、その意義の収斂すべき所は一つで、それを求めるべき人のためになることなのかではないかな、と感じました。もちろん、素人の浅知恵には危険も伴うことは重々肝に銘じなければなりませんが。

私自身は平均的な日本人の宗教観を有していますが、導師の方のお話はやはりありがたかったですし、「十重禁戒」を聞けば、自分自身のために役立てよう、とも思い、また故人への功徳になると思えば合掌して首を垂れる気持ちも湧きます。

それゆえに、バチあたりな、と思われるかもしれませんが、16話では力業的に「十重禁戒」を衛門の悩みに引き寄せてみよう、と考えてこのようなお話にしました。
厳しいご意見がおありの方もいらっしゃるかもしれません。当然ながら冒涜するつもりも、嘘を喧伝するつもりもごありません。ご理解をいただけますと幸いです。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

1件のコメント

  • カワセミさま

    深い考察、読んでいてとても考えさせられました。


    それから、こちらから、失礼いたします。
    わたしの作品。「光る源氏」へ、すばらしいレビューをいただき感激しております。
    本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。


    御作の更新を、楽しみにしております。
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