「敵」を見定めることは私のライフワークです。
残念ながら、敵を本当に倒すことはできません。当の私自身の中にもその敵はいるからです。
いかにダメージを与えて弱めるか、遠ざかるか、敵と戦う誰かを応援するか、それが私のできることのすべてです。
最近、また少し「敵」の姿が見えてきました。
カクヨムの皆さんは、「ありがとう」の反対語をご存じですか? 先日、還暦を過ぎて私はそのことをようやく初めて知りました。言われてみれば当然なのですが、「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」です。
この程度の言葉に、なぜ敵の姿が見えるのか。
それは、「相対的貧困」という言葉が大好きなかたがたが、その用語の説明として「あたりまえの生活ができないこと」と仰っているからです。
たったこれだけのことなのですが、私にとっては「LGBTQ+論争」や「生活保護受給者デモ報道」に対する「もやもや」を看破するちからとなったのです。
私が批判しているのではないことを読解していただけるでしょうか?
私はただ。
最低限度の、いや「普通」の生活が「できて」、いや、「させてくれて」「あたりまえ」だと思っていたら「ありがとう」は言えないだろう、そして「ありがとう」を言えないかたがたは、最低限度の幸福すら得られないだろう。
そう思っているだけなのです。