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小説家のくせにナマイキだ

ぼくにとって、日本や日本人という生き方が、興味の対象外になりつつある。自立した個人主義とも受け取れるけれど、誰にも干渉されずに、また、誰にも干渉しない人生観が出来上がってきた。ぼくのことを、ナマイキだと批判的に突き放すのも、その個々人の自由だと考えている。いつものことだ。
ぼくは出来る限り、これからも農業の仕事に従事していくと思うけれど、展望性はゼロに近い。
たとえば、カクヨムというサイトの物語を書くとするなら、「なろう系」のように文学潮流に参加して、SF水準までラノベの商業性と芸術性を引き上げたあとで、推理小説のように物語のアセットを整える必要があるだろう。
むかし、「ホトトギス」という雑誌があって、高浜虚子のことを千夜千冊が特集していた。
ところで、推理小説(ミステリー)では、事件を起こす犯人の推理を「フーダニット」のような形式で、物語上の作用としても指名手配する。犯人が特定された状況下では、むしろ、追う側に「ハウダニット」のように、凶器となる物的証拠を特定させる。従って、どのように犯行を捜索して、逮捕に至るかにドラマ性が生じてくるわけなのだ。
だから、物語の動き方は、刑法の範囲内に制約されてくる。その意味でいえば、たとえば、「時効」という考え方は、刑法という土俵から逸脱することを指している。ということは、小説の内部で、架空の立法措置を行えば、刑法の範囲は、ある程度、読者の了解を得て、自在に操作できるとも考えられる。
知の「鬼ごっこ」がルールを自発しているわけなのだ。今まで生活の内部にあった民法の揉め事が、内野の守備範囲を突破されたときに、刑法という外野の出番となる。しかし、問題は、内野が攻略されたときに、野球が破綻することである。その際は、架空の立法措置が暗黙の下に許可される。
ところで、「踊る大捜査線」と「相棒」のあいだに存在する、大きな刑事ドラマがあって忘れがちである。それは「アンフェア」の流行であり、サスペンスは、ここで一度、大きく展開していった。
もちろん、東野圭吾の「ガリレオ」や「新参者」もヒットしたわけで、宮部みゆきが書く社会派的な労作も話題をさらって行った。それは誰だって知っていることだ。
要するに、ラノベもまた、このような発展性を伴って、現代の社会的性格を獲得して、世界市場に進出していくことが考えられる。実に、夢のある物語だ。
ぼくの私生活としては、農業を従事するけれど、ほぼアンリアルな「ねがい」というものが存在するとするなれば、異性との結婚である。一般的な日本人と違って、どのように推理・構想・脚本化しても、無理筋だ。
しかし、これからも、しっかり働いて、社会的な批判に受け答えを実践していく。資本主義が文化を否定して、帝国主義のアメリカでは木端微塵になっていると推察するが、ぼくは、ビジネスでない、儲けないことにも全力でコミットしているつもりだ。
農業が存続の危機にあって、最終的に打ち切られる日まで、淡々と付き合う予定である。

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