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百冊一首とブックエンド

消えぬべき 法(のり)の光の 燈火(ともしび)を かかぐるわだの とまりなりけり

「清廉な西行」と「貪欲な清盛」はなぜウマが合ったのか――正反対の二人を結びつけた「知られざる縁」(2024年01月26日・デイリー新潮)から引用。

▼西行は、本来、北面の武士であって、出家を決断する折から、和歌を詠むにあたって、仏教の松明を絶やさない覚悟を胸中に秘めていた。
▼他方、明治の前夜。高杉晋作は、松陰の門下にあったが、安政の大獄で師を失ってからは、脱藩入獄を経て、挙兵に至るまで日本の「ある偉人」に自らを重ねていた。それが西行そのひとである。
高杉は、出家してからも遊び尽くすことに、人生にとって悟りの境地にあった。その命懸けの遊びに、奇兵隊の面々、百姓や町人を付き合わせて、おんな、子どもを道連れにすることをも本望だと悟った。極論するならば、駒回しをしたり、凧揚げや福笑いをすることこそが、半ば人生の切り口であると。
▼田中角栄も孫正義も堀江貴文も、みんな、高杉の如き歌舞伎ものであった。奇行の多くは、説明を拒んでいた。
▼ぼくは、同好の士と一緒に、言葉の綾を頼りにして寸鉄を紡いできたが、本棚を数えてみると、日記帳が百冊ほどあった。どれもこれも要約版なので、異常なほど雑念が渦巻いていたことが手に取るようにわかる。
高校を飛び出して、ざっと喘息と幻聴と田んぼに悩んできた足跡が苦し紛れに綴られている。相互編集の大切さがよく分かるのは、自分ひとりで日記を付けていても、何も覚束ないことだった。
▼「そうだ、三本の矢にしよう」ということで、自転車のペダルを漕いで、ブックエンドを百均で買い求めた。忸怩たる書の蝋燭は、吹き消そうと思えば、虚空に白い溜め息を吐くだけでよいかもしれない。詩歌にあそんで、書画をまねることこそ、現代、本当に咲き誇ってほしい千両の花である。






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