今どきのニュース用語で、脚光を浴びてきたキーワードがあって、年老いた人々に対して「フレイル」という状態をヘルスケアの考え方として、医療は、長年、啓発してきました。
フレイルとは、要介護と健康の「あいだ」に存在する状況なので、運動競技では対応しきれないが、本格的な医療が必要な段階でもなくて、野放図になってきました。早くもヘルスケアは、万博のコンセプトに書き込まれています。
たとえば、ウォーキングは、競歩のようにスポーツではないけれども、汗を流すのには、ぴったりで万歩計や血圧計も普及している。「二足歩行」が進化にとって、必然だったわけです。
そこで、デンタルクリニックでは、茶の湯のように健康チェックを実施するので、「フレイル」の対策を講じることに、キーブレークする場所でもあるわけです。
では、その背景には、何が起きているか?
そもそも、「茶」は、鎌倉期に、栄西の周辺から健康法の一種として持ち込まれ、多数の批判を浴びながら、日本文化として陶冶され、利休の侘茶が、信長の眼に留まります。
NHKは、平安期から団茶が盛んだったと無批判に報じていて、文化見識が問われるところとなっています。
図式的に比べると、道元の「禅」に対して、栄西は「茶」というファクターを植え込むことに成功したわけです。また、別の系統では、法然が、念仏を唱えていくことにもなりました。
茶の湯は、新しい文化だということで、天下人の器が制作されるようになり、江戸以降、陶芸が興隆して、日本各地に窯が点在するようになります。
長次郎の楽茶碗も、黒く焼きしめられていく。ご存知の通り、楽市楽座の「楽」であって、楽しいという文脈はナンセンスでしょう。(→官邸で全文を読む。)
このような数寄の語り方は、日本史を如何に記憶してきたかが問われるわけです。
坂道系のアイドルが、マイクを巡って、主と客と数寄のような文化装置を持っていたかは、茶の間のテレビに於ける、俗に云う「チャンネル権」と同様の作用があると考えています。しかし、その文化水準が明らかに低いことが特徴です。
食卓や学習机、鍵盤、映画館という「椅子の文化」は、そのような懸念が一切ないとは言い切れませんけれど、明らかに批判に耐久性を持つに至っています。
エコノミークラス症候群という批判も、そのひとつです。
ぼくも、歯科医のすすめによって、机と椅子に座るようになると、アフォーダンスが全く変わってきて、アイディアが多発するように思います。
そこには、少々、認知科学や脳科学が関わっていた。
ぼくの議論は、書の世界と接近できているとは評定できませんけれど、心と脳というものが、少しは海馬をもって情報が編集されていると思しいと考えています。
たとえば、小説の1場面が、挿し絵のように脳裏に浮かぶ「右脳」の作用というものは、グーグルのビッグデータ検索と似た部分があると推測できるわけです。
イメージピクチャを、モンタージュ写真の「似顔絵」(Mii)のようにトレースして、画像を検索している。その場合には、背景に、略図的な理解が生成AIにも働いていた、このように仮説できるでしょう?
私は、統合失調症の治療を受けて、投薬を飲んでいますけれど、辞書で調べる回数が多すぎることがリスクとして起因しています。ノートの書き込みが要約的でも過剰になっている。その割りには、読みを怠けている節があって、カクヨムの3割強しか使えていない。
したがって、「場所の記憶」というものが、検索アルゴリズムで、シャッフルされることで、ひんぱんに並び替えられることが、記憶を不可能にしている。フレイルは、東京を忘れらるる都にしている。そして、グーグルによる検索技術の審級という思想的な意味が問われる段階に入っている。
その「場所の記憶」が書物の得意分野だと考えられる、松岡正剛は、早い段階で、そのように述べたわけです。だから、デスクトップのストレージを工夫しなさいと指南してもいた。
脳の編集構造を記憶術で覚え込むと、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」のように、模型的な世界像が立ち上がってくる。記憶の欠落と「ド忘れ」は、多頭曳きの馬車のように、日本の行方となって、私たちの運命を握っています。