6章30話神様視点(没)
推敲してないので粗々です。
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涙が頬を伝い落ちるほどに、凍てつく神の気配が遠のいていく。
張り詰めた空気は薄れ、静かで、穏やかな夜が戻ってくる。
顔を上げれば、真正面で顔をしかめるエレノアがいる。
怒ったように眉根を寄せ、唇を噛み、彼の中の『神様』を睨みつけている。
その栗色の目が、泣き濡れる彼を映して瞬き――。
それから。
「――――こ」
それから、彼女はくしゃりと、その表情を歪めた。
それこそ、泣き顔のように。
「怖かったぁあ…………!!」
緊張が抜けたのだろう。彼女は溶けるかのように、ベッドの上にずるずると座り込む。
だけど細い手は、彼の濡れた頬に触れたまま。
たしかめるように摘まんでは、ぐにぐにと動かしてみせる。
「本当に本当に神様? いつもの神様ですよね?」
「え、ええ。はい」
頬を弄ばれながらも遠慮がちに頷けば、エレノアが心底安心したように「良かったあ……」と声を漏らす。
力が抜けきり、顔も上げられない様子でうつむくその姿に、彼は小さく息を呑んだ。
頬に触れる手が、思い出したように震えている。
うつむいた拍子に垂れ落ちた髪の影で、きつく唇を噛んでいる。
漏れ出す声を抑えるように、呼吸を止めて堪える彼女の頬を、こらえきれない涙が伝う。
――…………ああ。
本当に、彼女は普通の少女なのだ。
本来ならば神に歯向かえるはずもない。圧倒的な力の差に怯える、ごく当たり前の、小さな人間。
それでも彼女は、『神様』のために恐怖を呑んでくれたのだ。
震える少女の指先を、どう受け止めればいいのだろう。
神に触れるにはあまりにも無遠慮で、だけど不遜とは思えない。冷たい夜の下で、彼女の指の熱がやけに鮮明に感じられる。
「…………エレノアさん」
知らず、彼は少女の名前を呼んでいた。
続く言葉は、彼自身にもわからない。
謝罪とも懺悔とも、きっと違う。胸を突く感情に追われるように、彼は口を開き――。
「エレノアさん、私は――」
「――――というかですね!」
なにか言うよりも先に、エレノア自身に遮られた。
力んだ指先が、勢い余ったように彼の頬を横に伸ばす。
少し痛い。
「極端なんですよ、神様は! 私のことを心配してくださったのはわかりますけど!!」
「…………はい?」
「なにがあったか知りませんけど、そこまでしなくていいと言いますか! そりゃ私だって助かりたいですけど! そもそも、助けようって言ってくださる相手に言うのもなんですけど……!!」
力加減がわからないように、ぎちっと彼の顔を押さえ込んだまま、エレノアが顔を上げる。
弱気な涙の跡はもう見えない。震える恐怖を怒りに変え、きつく睨んでくるエレノアに、彼はかける言葉を失ってしまった。
たじろぐ彼を、恨むような栗色の目が見据える。
「もっと、普通でいいんですよ! そんなに思い詰めなくたって、普通に励ましたり、慰めたりしてくだされば、それだけで!!」
八つ当たりめいた言葉を、不快には感じない。
叱るような声はどこか懐かしい。
知らず、彼は見上げるようにエレノアを見つめていた。
あの小さな部屋で、かつて地を這っていた頃のように。
「それだけで、私は嬉しいんですから……!!」
暗闇を照らす光を見るように、彼はエレノアを見つめて目を細めた。
神を畏れ、不安に怯え、一人で泣いていた少女は――ありふれた人間の少女は、弱くて、どこまでも強い。
まぶしいくらいに。
「……すみません。かえって、ご心配をおかけしてしまいましたね」
「本当に!」
遠慮のないエレノアの返事に、彼は苦笑してしまう。
ふにゃりと緩んだ彼の笑みを見て、だけどエレノアはますます眉をひそめた。
「本当に――どうされたんですか。いきなり雰囲気も怖くて、国を壊すなんて言い出して。そのうえ、『人の心を得てしまった』――なんて」
そこで一度言葉を切り、エレノアは息を吐いた。
眉間のしわは変わらず。いぶかしさを含んだ視線に、彼はぎくりとする。
体を強張らせる彼をじっとりと見やり、彼女が告げるのは――。
「…………最初からずっと、神様って人間らしかったじゃないですか」
思いがけない言葉だ。
真正面から顔を突き合わせ、彼は少しの間瞬きを繰り返す。
「私が……?」
そう――だっただろうか。
思い返しても、彼に心当たりはない。
地を這う姿は人間離れしていたし、人間の形を得てからは、いっそ人間への嫌悪感が増していたはずだ。
――いや。
そこまで考えてから、彼は内心で否定する。
それから、自分を見据える胡乱な目に、ふっとため息のような笑みを漏らした。
「エレノアさんがいたからですよ」
きっと、彼女の目に映る彼は、彼自身が思うよりもずっと人間らしかったのだろう。
それは少し気恥ずかしくて、情けなく――同時に、妙に胸を騒がせる。
それこそ、人間のように。
「……神様?」
「普通。……普通に、慰められたいとおっしゃいましたね?」
雰囲気の変化を、敏感に察したのだろう。
思わず、という様子で離れようとするエレノアの手を片手で掴み、彼は目を細める。
胸を突く感情を表す言葉は知らない。
ただ衝動に追われるように、彼は膝をついたまま、少しだけ背を伸ばした。
うつむくエレノアとは、ほんのわずかな距離しかない。
そのまま彼は、体を引く間も顔を逸らす間も与えず、もう一方の手をエレノアの頬に当て――。
ほんの一瞬、影を重ねる。
つらさも不安も奪い取るように額に唇を当ててから、彼は小さく吐息を漏らした。
「エレノアさん」
離れても、まだ近すぎる距離。
目の前にあるのは、目を見開いたまま凍り付く少女の顔だ。
その顔が見る間に赤くなるのを、彼はどこかくすぐったい気持ちで見つめていた。
「きっと守って差し上げます。――あなたも、あなたの大切なものも、すべて」
夜が明けるまではもう少し。
声を殺した泣き声も今はなく、静寂を取り戻した夜の闇。
遠く、かすかに足音が聞こえることに彼は気が付いていた。
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最後の最後までどっち視点にするか悩んで、結局主人公視点を採用。
どっちが良かったんだろうなあ……。