自分は何となく『拷問』というキーワードの周りにいま立っている気がする。
自分の日常世界、外そのものが拷問のように感じる事はしばしば。
実生活で安心して楽しめるなんてほんの一握りだ。
昔から敏感な方だと言われてきた。
略してびびり。それがもっとひどいものだ。
だがお気楽すぎるご都合主義が災いして、こいつは図に乗るやつと思われ、結局関係は悪くなり拷問のような辛い日々…。
人との関係の悪さは拷問だ。相手が悪いわけではなくて自分の立ち位置が悪い。足場が悪い。ズブズブ沈みかけるが本格的ではなくて、見てる相手には踊ってるように見えるかもしれない。
前置きはともかく、実直に言って、蝋人形館の拷問の図は、なんかずっと見てると引き込まれそうな変な強い引力があり、何となく作り手が手を描けてるんじゃないかとも思える仕事ぶりだった。
人体を模倣する人にとって、その構造が隠されてるより顕著に動的なモノの方が意欲が沸いてしまうのかもしれない。
こういう事を書くと凄く嫌われる、そう焦る思いと、そういうものについて冷静な観点で接する事の出来る勇気…そういうのを感じてしまう。すると勇気が勝ってしまい、つい突っ込んでいく。
実直ではない事を書いてしまった。
他にはロンドン塔へ行ったとき、何故か懐かしい気持ちになった。それが拷問部屋だった。怖いが何か懐かしい。よくわからない感覚だ。頭がおかしいと思われるだろう。
その辺が疑問で、前世と関係あるのだろうかと思って妄想したりもした。ロンドン塔で閉じ込められ、拷問を受け、でも仲間と共に励ましあったりもした。それは美しい妄想だと思う。でも、と思う。そういう縛りから少し離れてみてはどうだろう。
苦痛だけなら懐かしい感覚より、辛い感覚、恐ろしいと思うだろう。
と言っても実はロンドン塔は城になったり、刑務所になったりしていたのでその拷問部屋が以前は食事をしたり社交をしたりする場だったというなら懐かしいのは自然だと思う。
そういう普通の感覚は自分にも他人にもわかる。でも言葉にならないような感覚で、懐かしい感覚を表してみると、究極的には自分がそこで死んだから、とも取れるかもしれない。
何故死んだ場所に愛着を感じるのか。それは死ぬまでの期間をそこで過ごした場所であり、自分の歴史が完成した場所でもあるからかもしれない。
そうなると何らかの原因でその人の死んだ場所は、とても重要で、実は懐かしいのかもしれない…。
ふとそんなことを考えた。また前世的な考え方だと、自分はそこにカルマを抱えていて、懐かしいと思う事で何か大切なものがあったことを伝えているのかもしれない。前世療法という本を読むと、そういったものを解消していく過程で、日常にきたしていた漠然とした絶望感がなくなっていったのだという。
また、自分が編集を担当した雑誌を置いてもらった場所も、隣が拷問関係のスペースだった。割に人気作家は根強いファンを持ってる。
内容を読んだが、グロい中になんかの感情がめちゃくちゃ詰め込まれていて、時に悲しく美しい表現もあった。
あれは何だろうと思う。
自分の知ってる人でそれ系の本を書いている人がいた。
かたやその人を危険人物と扱う知人がいた。
多分それ系の本を書いた人は、危険人物視してるひとを信頼していたのだと思う。
私もそのひとを信頼してるのである。
というのは、色々な感情をその人は理解し、表現できる人だからで、強い愛情を感じるからだ。
でも多分その人が私たちを見る事はないだろう。
それでも、その人の存在が私たちを救っていると思う。
だから、その人に対して、決して傷つけるようなことは
できない。
例えば自分の間違いを指摘してくれた人
自分の存在を認めてくれた人に対して
人は恨むことはできないのだ。