辞めるのは簡単でも、辞めた後はガックリとくるし、もっとできたのではないかと思う。それから、いいことばかりが思い出される。
でもそういう風になるために辞めるのかもしれない。
それに溺れていては、何処にも行きつけないのだが。
しかしいっそ思い切って溺れて想像の中で溺れ死んでしまえば、何か活路が見いだせるのかもしれない。
小説家はみんな心の病を持ってる、のような事を言っていた心理学者がいて、落ち込んでる時こそかなり慰められる。
というのも好きな小説がそのどっぷりと鬱な世界に浸かった、抜け出る事の出来ない鍾乳洞のような雰囲気のものが多く、やっぱりちょっとおかしい時に書いたんじゃないかと思えるから、そういう時は文章を書くに限ると思うのだ。
人が本当に自殺したくなる時と言うのは人を好きになり、それが叶わないときだと思う。世の中から必要とされていないと思う時も死にたくなるのだが、なにか割に合わない気がするのだ。どっちかというと必要とされてないと思う時は、布団の中に導かれる感じがする。
というところで雰囲気が台無しだ。
布団の中にいるとき、餌を待っている猫のようでかわいい。
一番寝ているときが安心した顔をしている。
そんなことを40になった今になっても聞かせる旦那がいる。
この旦那がいなくなったら本当の意味で世の中に自分がいる意味を見失うかもしれない。
そして今旦那がそばにいるので、ひとりになったら自然の中で生きたいと夢見たりする。自然の中に居場所を作れるような強い人間ではないとも思うが、田舎に安い家を買って単に住んでしまえばいいと安直な事を考えている。
税金はどうするのだろう。
所詮一人でないから考えられることなのだと思う。
1人でないのに1人であることを妄想する。
世の中に本当に孤独な人は少ないと思う。
だから本当に孤独な人は苦しむ。他人に対しての自分の感情がわからなくなることもあるだろう。
孤独な人の気持ちに気付いて寄り添える人はアフリカの飢餓を救うと同じくらい地球のためになることをしているのだと思う。
孤独な人同士が寄り添えることは地球の自然を守ることと同じくらい地球のためになるのだと思う。
ガスライティングについて、夏の煉獄に書いてみた。
滑稽で荒唐無稽で、これをされると本当につらいだろうと思う。
自分はこれをされてると思ったことがある。ニュアンスは違う。
遭ってみると怖いのだが、考えてみると滑稽である。
意図的にこれをすればこの人がおかしくなると考えて人間が行う行動そのものが笑える。
何だか良く分からないけど、笑えて来るのだ。
この姿を本人たちが見たとしたらおかしなことをしてる、おかしな人間に自分たちがなっている、と思うだろう。
それとも、誇りを持ったテロ行為だと思えるのだろうか。
人の感情は見えているものすべてに影響する。
理性は、人の感情は見えているものすべてに影響するという事について異議を唱え、修正する。
と書いたところで、やっぱり私は心の病気だと思う。