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出典明記の必要性

時代物を書いていると、資料探しや取材旅行に時間を取られることになります。
探し当てた資料や、新たに分かったことなどは、創作の糧となる大切なものです。

ただし、それらの事実を作品に使う時には、決まりごとがあります。
それは出典を明記すること、です。

参考にした図書や、資料館の名前、特別展の名称などを読者に分かるように明記する必要があります。自分が著作権のない一次資料(古典文献)から調べた資料なのか、誰かが調べたその結果としての書籍を引用しているのか。

前者であるならば知的財産権は自分にありますが、これは研究者が発表する論文であることがほとんどです。研究者は公の知、人類知のために、これらの知識を公開することが義務付けられています。けれどそのような公の知識であっても、産業にかかわってくる知識には、企業や私人によって勝手に特許が申請されて知識が占有されることを「防ぐために」特許が付与されることがあります。

iPS細胞の特許なんかがその最もたる例です。企業に独占されないために、研究者が所定の手続きさえとれば自由に使えるよう、特許で守られています。
*企業や私人による独占を目的とした特許の申請として「のまねこ」騒動とか、最近では「ゆっくり実況」騒動がありましたね。

この辺りは、メーカー勤務の方は良くご存じの分野のお話かと思います。

一方で、研究者の論文や知見を自ら調べてまとめ、一般向けに書かれた書籍というのが本屋で売られてたり、図書館に所蔵されています。

それらの内容を小説やエッセイに書き込むとき、その知的財産権は「その書籍の著者」にあります。

著者に無断で"知識"を使うことは、慣習的に物書きのはしくれとしてしてはならないことの一つではありますが、特にその書籍が小説ではなくノンフィクションに分類されている場合は、著作権の侵害となることがあります。

ここで著作権について、少々巷に誤解のある見解が出回っているようですので解説を。

著作権というのは、基本、人々の創作を縛るものではなく、人々の創作を促進するための権利です。ですので、著作物の著者とその著作物を利用したい人の両方に都合のいい法律となっているのです。

具体的にいうと、著作権というのは、著作物を利用したい人がその旨を著作者に明確に申し出た場合、著作者はそれを断ってはいけない、という前提で成り立っているのです(ただし、元の著作物のイメージを著しく損ねる場合は裁判を以て拒否できるので、ディ〇ニーや任〇堂の法務部はここで拒絶しています)。

そして利用した人には、その著作物を利用したことを自らの創作物に明記することが義務付けられています。

この使われる側使う側の双方向性の義務によって、両者に争議が起きることなく、より活発に創作活動が行われることを法律は推奨しているのです。著作権とは、創作を阻害するものではけしてありません。争議を回避するためのルールなのです。

ですので、もし、他の方が書いた書籍の内容を引用する場合は、文献としてその書籍を明記すれば著作権の侵害には当たらない、というのが現行慣習となっています。

……誰かの作品をパクる場合は、連載の回ごとにパクリ元の題名とURLを添付すれば著作権には引っ掛からないのです、知らんけど( ゚ω゚)

出典を明記する、とは、自分の知識がどこからきたのかを読者に明らかにするための行いです。読者に対する作者のフェアな姿勢、と言い換えられるかと。

著作権の問題はなくても、自ら調査を行い本にまとめたその本の著者に対し、"執筆の努力に敬意を払うこと"は、同じく創作を行っている方なら身に染みて理解できることかと存じます。

私が折に触れて「取材のために~に行った」と報告し文章にまとめているのは、私の知識がどこから得たものなのかを対外的に明らかにするためです。

大体この辺り、大学に入ったばかりの学生がレポートでやらかして教官に指導されることですね。覚えのある方もおられるでしょう。

……いえ、このところTwitterを見ていて、けっこう根拠曖昧な言説が好き勝手に世の中を駆け巡っているのだなあ、と実感したのでまとめてみたのです。私が数年前に作ってネットに放流したgifと"再会"したのは感動でした( ゚ω゚)

私の作品でも、参考文献はオープンにしているのでよろしければご覧ください。
↓このあたりの作品ですね。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054934728311
https://kakuyomu.jp/works/1177354054934987728
https://kakuyomu.jp/works/1177354054934988614

……相変わらずお絵かきも練習しています。お目汚し。

2件のコメント

  • 常々気になってることなんですよね。
    今、書いているエッセイは、基本的に参考にしているものがネット上のよもやま話だったり、身内や知人から聞いたことのある話を元にしてます。それと、Wikipediaとかも。
    これは参考文献に当たるのかな?と悩むこともしばしば。

    書籍であれば、全ての項目の最後に参考文献を挙げられるんですけどね。1,000文字以内の日記のようなエッセイにそれを毎回するのはどうなのか?
    と、悩んだりもしたんですよね。

    書籍と投稿サイトと言う差と申しますか、気楽に投稿しているため、そう言った点も気楽になりがちなのかもしれませんね。

    特に歴史的事実に基づいて書くなら、気を付けないと、とは思ってます。
    今、江戸の園芸に興味津々で資料がほしい!と思っているので、もしも、それを元に小説を書くことがあれば、参考文献の記載も気を付けたいと思います(*`・ω・)ゞ
  • 紙とwebが今混在しているので、余計に混乱しているのかもしれませんね。

    日埜和さまのお子さんぐらいからデジタルネイティブな世代だと思うのですが、彼らの方がかっちり理解しているようです。……ダメな子は駄目ですが、それはまあ、いつの世代にもいるものです。

    webと現実が乖離していた頃に若い時を過ごした世代は、当時の"閉鎖的な"ネット環境を引きずっているように思います。かなり、別物と言っていいほど変化しているんですけどね、今は(´・ω・`)

    そうするとwebで公開するときに気を付けなければいけないことを無意識にすっ飛ばし、あかんことになってしまうのではないかな、と。

    近頃ネットでの誹謗中傷の書き込みで訴えられるのが、中高年以降の人間というのが、この辺りのしょっぱさかな~(´・ω・`)、と。

    知っていると知っていないとでは何かあったときの対応に差が出ますから、なんか、まあ、おいおいという感じでも良いかと思います。

    日埜和さまのエッセイは、作中でも「資料を参考にして~」と述べておられますよね? その一言があるので大丈夫と思いますし、あるとないとでけっこう違ってくるのかな、と思います。

    気になるようでしたら、あらすじのところに「〇〇〇」等の本を参考にしています!と一言書くのがいちばん楽な手段かな?と。

    ……ちなみに、近年の例ですと盗作が疑われた「後宮の検〇女官」という角川の本、最後の方に「〇〇を参考にしました」と元本の書名を書いて逃げ切ったのは、↑の近況ノート本文の著作権の応用ですね。

    何があるかわからぬこの世の中、知っておいて損はないことかと思います(;^_^
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