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松ケ岡開墾中の庄内藩士の皆さん(新徴組含む)

ちょうど開墾中の写真です。著作権のあれやこれやでもやっとした画像で申し訳ございません。

当時の写真撮影の常で露出に数十秒が必要だったのですが、皆さん、しっかりイキっておられます。

戊辰戦争で負けた直後なんですけれど、悲壮感というものはあまり感じられません。むしろ目的目標がはっきりしているので、やる気に満ち溢れているといったところでしょうか。

戊辰戦争で旧幕側だった庄内藩ですが、敗戦後、当主の酒井忠篤(当時16歳)は江戸で蟄居謹慎、家督は弟に一時的に受け渡されます。この事態に幕末維新期の庄内藩を支えた重臣、菅実秀は、国許の藩士や領民達に主君の汚名を灌ぐための奮起を促しました。

松ケ岡の開墾は明治新政府から命じられた労働ではあったのですが、新しい世のためというモヤっとした目標より、江戸に閉じ込められている殿様を国許に戻すために、という目的のほうが具体的に彼らの心に響いたのではないのかと思います。

当時の忠義や報君といった考え方には、多少なりとも信仰に近い感情があったのではないかと私は考えています。

ここで、幕末期までに完成していた封建制度は、基本、国(クニ)を単位としていたことを確認しておきたいと思います。

クニを藩と言い換えることも可能ですが、藩という言葉自体、明治政府が廃藩置県のために使った言葉ですので江戸時代、藩という概念は一部の学者を除き一般的ではなかった、というのが通説です。

飛鳥時代に定められた大宝律令(701年制定)によりクニのおおよそが決められていたので、この制度の基盤自体はかなり古いものです。

その後、平安、鎌倉そして室町と時代を下っていく間、土地の領主はめまぐるしく変化しました。

けれど江戸時代に入って世情が安定すると、一つのクニを世襲で長く治める領主が表れ始めました。長くクニを収める領主は土地の歴史や文化と融合して神格化されることが珍しくなく、庄内藩も庄内神社に酒井氏の祖先が神として祀られています。

領主はその土地の統治の象徴であり、神とも等しい存在である。

だからこそ臣下領民は領主へ一心に仕え、朱子学などの学問はその彼らの在り方を言語化し体系化するために必要とされたのではないでしょうか。

水戸藩は既存の学問に飽き足らず、自らの在り方を規定する学問である水戸学を構築しましたが、それは藩という単位が当主を頂点として独立した文化を持っていたこともまた、示唆していると思うのです。

……いうて徳川家康だって日光東照宮ですし、信長だって自分の神社を持っていましたし、ハマの大魔神も(以下略)

このようなクニ毎に神格化されたトップを擁していた封建制度を明治新政府は破壊し、中央完全集権型へと政治形態を移行させました。

現人神である天皇を頂点にし臣民をその下にする、なんだか明治新政府が新たに考案したスタイルのようですが、実はこのシステム自体は新しいものではありません。クニを単位とすれば江戸時代には普遍的であり、ルーツを古代にまで辿ることができる昔ながらの日本の社会の在り方であったと、そのように捉えることもできるかと思います。

王政復古の大号令も、そう考えると小さな枠組みを大きな枠組みに移し直しただけのようにも思えてくるのです。

今、こんな精神がどこに生きているかといえば、う~ん、うっかり自分の境遇を顧みることなく盲目的に過労死レベルまで働いちゃう日本の労働形態ですかね!( ゚ω゚)(意見には個人差があります)
……なんだかんだで、そんなに昔と変わっていない気もするんです。

庄内藩と新徴組に関しては拙作「冬青木坂の追憶」(https://kakuyomu.jp/works/16816700426898590355)で触れておりますが、作中では庄内藩の上層部の皆様は出てきません。また時間ができたら書いてみたいなあ、と思っていますが、……書いてみたいなあ、じゃなくて、書かなきゃならん展開になる予感もします。

そんなこんなで、まずは庄内取材旅行の所感初報とさせていただきます。

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