これは口論した相手の方を攻撃する目的で書かれたものではありません。
私は今日、こんなツイートをした。
『殻を破るのには苦痛が伴う。その痛みは内部からのものもあれば、外部からのものもある。痛みから逃げ続ければ成長の機会は訪れない。
周りがイエスマンばかりの人が成長しないのは痛みがないからだと思う。』
まあ、言葉不足なこともあるが、言いたいことは成長するには勉強や指導が必要で楽しいことばかりではない、ということだ。
投稿後、タイムラインを見ているとフォロバしているある方がこんなツイートをしていた。
以下要約
・人間つらかったら逃げていい、何で苦しんで創作しないといけないんや
・自分を顧みることのできる人間誰でも苦しまなくても成長できる。
・こっちは楽しくやってんねん
割と優しい書き方にしてあります。
これを見て私は僕のツイートに反応したのか? とリプを飛ばした。
すると、そうだ、と相手も認めた。
この後、何度かやり取りをして話に区切りはついた。
だが、私が残念に思うのは
・自分が攻撃されていると思ったのか、攻撃的な書き方でツイートされたこと
・僕のツイートを0か100で捉えていたことである。
私ならやんわりこうツイートします。
「まあ、僕は気楽に書いてるんで、痛みを伴うくらいなら書かないです。」
これなら、問題は起こらない。なのに、相手を真っ向から全否定する選択をした。それは悪手かな、と僕は思った。また内部の痛みは勉強を指す。自分を顧みるとは勉強のことでは無いか? とも思った。
僕は上記の自分のツイートの通り、もっといい文章を書きたいというときに、自分で勉強する(内部の痛み)と他人から指導を受ける(外部の痛み)という感じで書いた。
実際、外部の痛みとして応援コメントで処女作に厳しいコメントを書かれたことがあったが、それのおかげで書き方のバリエーションが増えたりもした。作品の品質にそのコメントは貢献した。
今作もいろんな方がいろんな書き方で僕の作品にアドバイスをくださっている。多少書き方が批判的でもコメントをすべて残しているのは、そのコメントが私の成長の証だからだ。
楽しんで書くのは大いに結構。私も楽しみながら書いている。
でもいろんな人に読んでほしい、評価が欲しい、作品の質を上げたい、ってときにはやはり勉強や指導が必要だ。そしてそれらは必ずしも楽しいことばかりではない。
やはり成長には痛みが伴うと私は思う。