さて、今回は私の二つ目の街コン作品『秋は短し』の中に出てくる秋田県立美術館と「秋田の行事」という壁画について解説しようかと思います!
長い記事になっちゃいましたが皆さんどうぞお付き合いください。
美術館の中にある喫茶店もおススメです♪
■秋田県立美術館のなりたち
秋田県立美術館は正式名称を「秋田県立美術館 平野政吉コレクション」といい秋田近くのエリアなかいち内にある美術館です。
この美術館は秋田の資産家、美術蒐集家である平野政吉蒐集の絵画を多く展示しています。
もともとこの美術館は大通りを挟んで向かい側にある千秋公園の中にありました。
美術館の移転にあたっては、建物の設計に藤田が深くかかわっていたこともあり、所蔵されている作品群と美術館建物は一体不可分の芸術性を持つものとして、移転に反対する市民運動もありましたが、2013年に移転、再オープンしました。
新しい美術館は、建築家の安藤忠雄によって設計された鉄筋コンクリートでできた3階建ての建物で、三角形をモチーフとして構成され、2階には千秋公園と旧美術館の屋根を望む水庭を有しています。
秋田県立美術館には、「秋田の行事」の他にも藤田嗣治の有名な作品、「眠れる女」、「カーナバルの後」、「自画像」など、日本画、素描、版画を含めると105点もの作品が所蔵されています。
・秋田県立美術館HP
http://www.akita-museum-of-art.jp・Wikipedia-
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8_%E5%B9%B3%E9%87%8E%E6%94%BF%E5%90%89%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3■藤田嗣治(レオナール・フジタ)について
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家で、のちにフランスに帰化しています。(フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ)
おかっぱ頭に丸眼鏡という独特の風貌で、戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びています。
当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、嗣治の暗くクラシックな趣の画風はまったく評価されませんでした。
そこで彼はパリに渡ります。大戦と大戦の狭間、独特の頽廃と狂乱で満ちたパリで彼の東洋のエキゾシズムを湛えた繊細な作品は、高い評価を得て、エコール・ド・パリの代表的な画家としてフランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ました。
パリではもてはやされていた藤田でしたが、日本美術界では、結婚を繰り返すことで派手に思われた女性関係や目立つ奇異なパフォーマンスなどから評判は相変わらず芳しくありませんでした。
しかし、パリでも第二次世界大戦の勃発とともに戦火に追われ、彼は再び日本に戻ることになります。
戦時中日本に戻ってきた藤田に、陸軍報道部から戦争記録画を描くように要請があり、彼は戦争画を手がけることになります。
ところが敗戦後、彼は日本美術界によって半ばスケープゴートに近いかたちで戦争協力の罪を非難され再びパリへ渡ります。
その後彼はフランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名をとった)となりました。
日本美術界に冷遇されてきた藤田。
彼の死後も「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていた君子夫人の反対もあり、日本では長いこと展覧会が開催されることもありませんでした。
しかし2006年、戦争画を保管していた東京国立近代美術館を皮切りに、藤田嗣治展が各地で開催されるに至り、その作品は再評価されています。
・参考ページ
http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm・Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB■『秋田の行事』について
1933(昭和8)年11月に日本に帰国した藤田嗣治は、翌年から銀座のブラジル珈琲陳列所を皮切りに、東京、大阪、京都で次々と壁画を制作すします。
これは帰国前に歴訪した中南米でメキシコ壁画運動に触れ、壁画制作に意欲的であったためです。
秋田市の資産家・平野政吉が美術館建設計画を打ち出したのは1936(昭和11)年7月のことです。
妻マドレーヌを亡くした藤田に、平野がその鎮魂のため建設を提案したといいます。
その計画を受けて秋田入りした藤田は、秋田で壁画を制作することを表明します。
秋田の全貌を画面に展開させようと構想した彼は、月に一度来秋し、祭りを見たり史跡を巡ったりし、また平野政吉との交流も深めました。
1937(昭和12)年3月、平野家の米蔵で「秋田の行事」を完成させます。
しかしこの年の夏以降、日本は戦時体制へと大きく傾斜していき、美術館の建設計画は頓挫し、その翌年から藤田は戦争画へ踏み込んでいきます。
実際に美術館が出来上がったのは1967年(昭和42年)になってからで、晩年の藤田が 「秋田の行事」の展示方法や光の取り入れ具合などを詳しく指示したと言われています。
公益財団法人 平野政吉美術財団HP
http://www.pic-hiranofound.jp/collection.html#akita☆作品本編はこちらから↓↓
秋は短し - カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881875276