「亡くなった主人の元気な姿が見たいのです」
始まりは、老婦人のそんな一言だった。
町起こしの一環として作られた、寂れた商店街のVRのデータ。せめてその上で元気に働く夫に会いたいという、そんな依頼だった。
生前の写真が豊富にあったこと、自動で3Dモデルを起こすソフトが開発されていたこと。その他幾つかの幸運で簡単なマクロで日常生活を送る男性がVR空間の上に実装された。
それを見守る老婦人は、とても幸福そうだった。
十年後。老婦人は遺言を遺した。「死んだ後も、夫と一緒に居たい」と。
遺言は実行に移された。その時には、VR上に人一人を『移住』させる労力は、かなり減っていた。
程なくして婦人は亡くなり、代わりにVR空間上に一軒の商店が生れた。生前の夫婦を知る人達は、しばしば其処を訪れた。この話をネットニュースとして聞いた人も居るだろう。
やがて。色々な人々がVR空間へ移り住むようになった。人物モデルを動かすマクロも高度になり、VR空間の商店街は、全盛期以上の賑わいを得ていた。
例えば、一緒に住めない息子夫婦が、自分の家族モデルをVR空間に住まわせた。例えば、初恋の人のモデルを作って住まわせた(これは後で問題になった)。
一方で、現実の商店街は寂れていく。町起しだった筈のVR商店街だが、この時期にはVR化された街は然程珍しくなくなっていた。
まるで商店街そのものがVR空間に移り住むかのように。一人、また一人と人が消えて、そしてVR空間に現れて。最後には誰もいなくなってしまった。
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とまぁ、Twitterの話題から、こんな話を思い浮かべました。