漫画原作と小説の違いを、質問されます。
漫画原作には色々な形式があり、例えば梶原一騎先生はもともと小説家ですから、小説形式の原作だったそうです。
小説形式だと登場人物の台詞に重きを置いた形式であり、ある意味でライトノベル的な感じになります。漫画家さんが読むとき感情移入しやすく、作家の熱量であったりとか、原作者のこだわりとか伝わりやすいです。
その反面、細かい状況や設定が誤解されやすく、『あしたのジョー』でもちばてつや先生が、原作のイメージから力石徹を大男に描いてしまい、展開を変えざるを得なくなりました。
結果的に、力石の過酷な減量をシーンが加わったことによって、ファンが増えて読者の興味関心も高まり、マンガ史に残る傑作になりました。
映画や舞台の脚本のようにシナリオ形式の原作者もかなり多いです。ト書きと台詞と簡単な状況説明・人物の特徴説明ぐらいで、かなりシンプルな感じがします。
ト書きによる状況説明がシンプルで誤解の余地が少なく、また演出部分のところで漫画家の自由裁量部分も大きい面があります。
小池一夫先生もシナリオ形式でしたが、映画の脚本などに比べてかなり詳しく書き込まれており、小説形式に近い脚本形式と言えるかもしれません。
近年多いのはネーム型式で、漫画家の描く漫画の設計図のようなものがゲームなのですが。ベテランの漫画家さんが原作者を担当する場合は、この形式が多いですね。大場つぐみ先生などは、単行本の中で一部公開されていますね。
小説形式やシナリオ形式の原作を読んでも、画面が思い浮かばないという編集者が増えてしまったため、ネーム原作が好まれる面もあります。
とてもわかりやすいのですが、漫画家の自由裁量の部分が小説形式や脚本形式よりぐっと減るので、嫌がる漫画家さんもいます。
白泉社のホラーシルキーに、拙作が掲載されますね。作画はホラー漫画家の、永久保貴一先生。永久保先生は原作者もやっておられるので、どの形式でも構わないと言われたので、シナリオ形式にして、提出いたしました。
原作者の醍醐味としては、読者よりも早く完成作を読めるということと、自分の生み出した原作がどのような形で漫画家のフィルターを通って、表現されるか。
梶原一騎先生は、自分の原作のセリフは句読点の位置さえ変えることを許さなかったそうですが、絵に関しては漫画家に全面的に任せており、そこの棲み分けはきっちりされていたようですね。
当方も、このスタンスです。