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読書メモ㊹

『ライトノベルよ、どこへいく 一九八〇年代からゼロ年代まで』山中 智省∥著(青弓社)2010/09
『ライトノベル・クロニクル2010-2021』ele‐king books 飯田 一史∥著(Pヴァイン)2021/03

2010年代のライトノベルについてあたる前にそれ以前の復習を、ということで新旧2冊を合わせ読んでみました。

80年代後半の少女小説・ファンタジー小説ブームで若年層向け小説が出版市場で注目され、少女小説主体のレーベルは男性読者を、角川スニーカー文庫は「オタク族」を獲得しようと販売戦略を展開、「ジュニア文庫=少女小説」だったのが1992年頃には「ファンタジー小説の文庫レーベル」が存在感を増し、これらの小説群がライトノベルの系譜に位置するものとなる。

とはいえ、ライトノベルという名称に違和感、拒否感を示す業界人は多く、呼び方がなかなか定着しなかった黎明期ともいえる1994年時点でのSF作家の大原まりこの見解がすごいです。

〈まずキャラクターがあり、会話と改行が多く、ノリがよく、現実味がなく、内容は空疎、描写が必要な箇所になるとイラストがはさまって読者の想像をおぎなう。〉
〈わたしは文章によって物事を描写し尽くすことこそが小説家の醍醐味だと思っているが、文字どおりケタちがいの売れ行きを知って、そもそもライトノベルの読者は、普通の小説の読者とちがうのではないかと感じはじめた。アニメ・ゲーム世代の読者は、ひょっとすると文章による描写がなくても勝手に絵が浮かんでいるのではないか。送り手にも受け手にも、アニメ(やゲーム)という基礎知識あるいは共有感覚があってはじめて成り立つ創作なのではないだろうか。〉(p28より)

本文でも触れてますが、その後の「キャラクター小説」論(大塚英志)や「データベース消費」論(東浩紀)に通じる特徴を指摘してるのですね。この頃からライトノベルはライトノベルだったともいえそうです。

『ライトノベルよ、どこへいく』ではこういった当時の新聞記事や雑誌の特集記事、「出版月報」の分析などを元に、ライトノベルが受容されていった過程がつづられています。

続くゼロ年代、若者の活字離れというけれど実は若年層はライトノベルを読んでいる、という認識の広まりと、ライトノベルの文芸としての評価を求める『ライトノベル完全読本』との影響とがあって、出版業界が話題作りに取り組むようになる。
ということで、「ダ・ヴィンチ」では「大人もハマる!!」「オトナ読者急増!」「ライトノベルを無視して文芸は語れない!」とライトノベル特集が組まれ、やがてはライトノベル出身作家の作品の文学・一般文芸での評価が強調されるようになる。
とにかくライトノベルを文芸としてごり押ししようとする意図を感じます。
一般文芸の読者をターゲットに一般文芸に近い装丁で再出版されたり、「角川つばさ文庫」のように低年齢層向けに再収録するパターンも。

〈このため、イラストを評価対象からはずそうとする傾向は一層顕著になった。(中略)しかし一方では、当初からライトノベルの主要読者だったオタク読者にとってイラストが重要な要素であることに変わりなく、出版社もオタク読者を顧客とする専門書店もそれを意識した販売戦略を展開している。つまり市場を支えている主要読者(=オタク読者)と、それ以外の読者(=一般文芸の読者)をターゲットにした販売戦略が同時に展開されているのだ。
 このように「「萌え」方面に動物化していく作品と、一般文芸との隙間を埋めていく作品」が同時展開されている状況を、乙木一史は「ラノベの二極化」と呼んでいる。」(p138より)

この二極化が進んで今の脳死ラブコメとライト文芸があるのかーと頷いちゃったり、でも今となっては、一般文芸とライト文芸の違いの方が気になるのですけど、私は。

話はもどって。じゃあ、ライトノベルは文芸だ文学だとごり押しする動きに対して、文学界の方はというと至ってクールなのですね。

例えば「文学界」2008年4月号の座談会にて
〈ライトノベルやケータイ小説の隆盛がクローズアップされているようだけれども、われわれが心配するほどのことはないんです。そういうものばかり読んでいる読者が何百万もいて、それで売れてることが羨ましいだけなんだと思う。/だったら、われわれ文学の側がその何百万もの読者の目を、自分たちのほうに向けさせるようなものを書けばいいんです。〉(筒井康隆)
〈ラノベとかケータイ小説のことをなぜ「文学界」の人たちが聞きたがるか最初謎だったんですけど、筒井さんがおっしゃるように、要は羨ましいんだと思います。売れてるから。でもラノベとかケータイ小説が新しいものだという感じはあまりないです。昔からキャラ萌えとか、ストーリーで読ませることで読者をひきつけてきた小説はいっぱいあったはずです。だから、今さらそれについて特別に何かを考えなくてはならないという必要は感じないです。〉(山崎ナオコーラ)

一方で、筒井康隆はテレビドラマから影響を受けた新書ノベルに比べたらライトノベルはずっとまし、ハルヒシリーズを「大したもんですよ」と褒めてます。

〈ゼロ年代に入って以降、多くの文芸誌でエンターテイメント系作家を起用するといった若手世代を意識した誌面作りや、他分野の才能を積極的に受け入れる動きが見られるようになった。(中略)
若手世代が掲げた「新しい才能」「既存の小説と別の可能性」の候補の一つがライトノベルだったのである。〉(p147-148)

この時点ではライトノベルは「売れている」ゆえに過剰な期待を背負わされてる感じがします。それもこれも背景には出版界の苦境があるからですよね。

〈ライトノベルは「活字のジャンクフード」すなわち「ただの娯楽」という水準を脱し、「文壇で正当な評価を受けなければならない」と宣言されるそのとき、「文壇」の側から「文学はただの娯楽になる」べきだという、どことなく悲痛な断念の声が聞こえてくる。このすれ違いは、いささか滑稽ではないだろうか。〉(笠井潔)(p149より)

さて、ライトノベルはどこへいく、ということで2010年代はどうなったか。

『ライトノベル・クロニクル』では「ジャンルに詳しくない人に向けて、もっとも売れた作品群を中心に取り上げ、一作品にあたり二〇〇〇字程度の論評を五〇作品分提示することで、おおまかな見取り図と論点を提供するものだ」ということで『とある魔術の禁書目録』から『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』まで取り上げてます。
「一見すると享楽的な作品群から社会や時代を読み取った」本書、

〈日本では海外ゲームでは主流のリアルな3DのRPGやFPS・TPSよりも、2D風グラフィックやマンガ・アニメ的な造形のキャラクターの方がおそらくまだ人気が高く、ラノベのゲームものでは後者的なものが圧倒的に多い。つまり「リアルに造形されたゲーム世界」よりも、「虚構度が高くデフォルメされた二次元世界」に没入したいという気持ちが強いのだ。〉(p132)

〈異世界転生・転移ものには植民地主義的態度が拭いがたく存在する。前世(=現代)の知識や技術を使って無双あるいは内政チートする行為は「文明が野蛮を支配・啓蒙する」枠組みにほかならない。レヴィ=ストロース以降の「未開と呼ばれてきた社会にも高度な象徴体系、交換体系、智慧が存在する」という態度で、むしろ野蛮と思われた社会によって先進国から来た人間が目を開かされる――といった異世界を描く作品はまれである。〉(p192)

〈ラノベはその時々に流行っているものはあっても、ジャンル読者が遡って参照すべき(というより実際に参照して読み継がれている)作品がない。編集者も作家も「過去の名作を読まないと話にならない」などということはない。ラノベには「現在」しかない。〉(p204)

〈芸人のマキタスポーツは、ラーメンや音楽、SNSの「ドンシャリ」化――低音と高音の協調、つまり「バランス良く」よりも「キャラの立った、極端な濃い味付け」が好まれる傾向――を指摘したが、ラノベも同様なのかもしれない。(中略)コンテンツ量が増え、触れる前から「どんな作品で、何がウリか」を瞬時に受け手に伝えねばならない今日では、バランス型より特化型がウケやすいのは避けがたいのかもしれない。〉(p300)

と、参考になりそうな考察がたくさんです。
こんな2010年代をまとめると、
〈スニーカーやファンタジア等ですら「中高生向け」という建前が実質的に崩れ、社会人が主人公やラブコメラノベにおけるヒロインの作品まで増えていく。/こうした「大人向け」化が進んだことや、恋愛SLG的ギャルゲー観残存の古くささ(感覚のズレ)などを要因として本来のターゲットだった中高生が離れ、文庫ラノベ市場は半減した(ただし、単行本と合わせれば小さくなっていない)。/内容的に見ると、従来のラノベは「楽しい」「ネタになる」「刺さる」を主たるニーズとし、バトル・笑い・恋愛を三大要素とした「ドーパミン・アドレナリン系」とも言うべきものだったが、大人が読むウェブ小説では、ほっこり・もふもふ・うまいめしなどを描く「オキシトシン系」作品も台頭した。〉(p313)

作者の高年齢化による古臭さはいくつかの作品の論評でも指摘していて、この著者さんは『いま、子どもの本が売れる理由』を書いた人なので、ここでも「学校読書調査」や「朝読ランキング」を取り上げて、いちばん本を読む年代である中学生を取り込むラノベの新規タイトルがないことをコラムで問題にしています。
〈編集者たちはマクロトレンドと中学生のリアルなニーズに向き合わず、結果、巨大な機会損失を起こしているように見える。ラノベが中学生に届かなくなり、文庫ラノベ市場が半減した原因は出版業界側にある。大人向けに広げたことで得た市場より、失った市場の方が大きかったことは事実である。〉(p117)

……なんか、ライトノベルを文芸として評価しろと主張して「大人向け」化を図ったあげく、「今の若者に届く」ライトノベルらしさを失っちゃったって皮肉ですね……

合間合間のコラムの方も興味深いです。特に関係者に直接聞き取りをしたという中国web小説と韓国web小説についてやLINEノベルの失敗について。
とにかく内側にこもる日本人気質を感じてしまいます、どうしてこうもガラパゴス化したがるのか。

さてさて、2030年代にはライトノベルはどうなっているのか。ライトノベルはどこへ向かうのか。


『編集者とタブレット』海外文学セレクション ポール フルネル∥著 高橋 啓∥訳(東京創元社)2022/03

問答無用でタブレットを渡され紙の原稿を懐かしみつつ第一線から身を引いていくベテラン編集者の哀愁をコミカルに綴った小説。なのですけど、フランス中世のセクスティーヌという定型詩の形式を用いているそうで、でも日本語に当てはめることは不可能ということが訳者あとがきで嘆かれてます。けどポップで洒脱で知的な老編集者の語り口は十分堪能できます。
消えゆくものへの哀惜をにじませつつ、新しいものを否定もしない飄々とした語り口が魅力です。
あるいは編集者、あるいは研修生、あるいは職業作家のセリフの数々に出版業界の憂いが……

〈「一回の市場調査にどれだけ金がかかるか、ご存じですかな、ムッシュ・ムニエ。べつに調べなくてもけっこう。本の価格の三倍の費用がかかります。そこで本が売れるかそうかを見るために本を出してみるという悪しき慣行がまかり通るようになったわけです。それが出版業と呼ばれるものであり、それが私の仕事だということです」〉

〈「私としては、使い方さえわかれば、このタブレットで映画を観たほうがいいな。そもそも本よりテレビに似てるんだから。会社の食堂でメシを食ってるときや、バスやトイレのなかで、連続ドラマでも見たらいいじゃないか。『ザ・ワイヤー』とか『デスパレートな出版社』とかね」〉

〈「出版社の仕事の大半はガソリンを消費することにあるんだよ」〉
〈「われわれはひたすら本を売ろうとして、何もかもほじくり返して売り尽くしてしまったんだ。だからもう売れなくなった。何もかもわれわれの過ちだ」〉

〈「小説は滅びてしまうかもしれないが、詩は勝ち残るだろう。短いのも、重量級のも、ファルス系のも、ブログも、それからまだよく知られていないものや、それなりに見当のつくものも……」〉
〈「われわれには何もない。だから新しいものを作り出すんだ、似たようなものはいらない……」〉

〈「読むことだよ、もちろん。何でもかんでも、のべつまくなしにね。それと、心から愛することだ。きみが世に出すテクストを心から愛すれば、その作品はすでに不滅の傑作への第一歩を踏み出しているんだよ」〉

〈原稿ばかり読んでいると、自分の拠って立つ基準を見失ってしまうのだ。傑作を読むチャンスはほとんど皆無で、よく書けている作品を読む機会はそれより多いが、そのテクストがよいものであるという確信を持つためには、巨匠の目線で読まなければならず、ほかのよく書けている原稿との比較で読んではいけないのだ。〉

〈「パーティのあいだずっと考えていたんだ、これからは恋愛小説しか書かんぞってな。実際、恋愛小説なら何でも扱えると思うんだよ。歴史も、政治も、形式的な実験さえもね。このあいだ出した最新作には感情が欠けている、セックスもないし、欲望もない、あまりに知性に偏りすぎている。あのモーちゃんを見ろ。こんな言い方で申し訳ないが、安っぽい感情だけで十万部だぞ」
「二十万だ」
「おれは自分の女性読者にもっと寄り添った仕事をしなくちゃならん。新たな恋愛の構図を見出さねばならん。新たな規範を作り上げるんだ。誘惑と嫉妬だ。そうだろ、男と女が出合う物語……」〉

などなど、名言がてんこ盛りなのでした。


『文明開化がやって来た チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』林 丈二∥著(柏書房)2016/10

明治時代の新聞の豊富な挿絵から当時の情報を読み取っていくのですが、著者さんのすっごい細かいツッコミと探求がすっごい(笑)
それだけ当時の挿絵が見どころ満載で面白いです。西洋画を学んだ画工が増えていくとだんだんと雰囲気が変わっていってマンガみたいな挿絵も登場します。
けど、私は初期の頃の、浮世絵みたいな、陰影を用いないはっきりした輪郭線の絵の方が見ごたえがあると思いました。隙間風を防ぐために壁に貼り付けた反古紙の書き込みとか、瓶のラベルとか、こまごました生活道具とか、書き込みがとにかくすごいです。

こういった挿絵を添えられた三面記事や投稿欄の内容も興味深いです。激動の時代、いろいろ言う人は多いよねっていう。
当時の連載小説にも興味深々になっちゃいました。めっさ大衆娯楽っぽくて参考になりそうですw


以下は資料メモ。

『平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世』歴史文化ライブラリー438 桃崎 有一郎∥著(吉川弘文館)2016/12
『公卿会議 論戦する宮廷貴族たち』中公新書2510 美川 圭∥著(中央公論新社)2018/10
『平安貴族』平凡社ライブラリー901 橋本 義彦∥著(平凡社)2020/05

4件のコメント

  • 奈月さんの読書メモをいつも楽しみにしてます(^▽^)/

    筒井康隆×ハルヒはなんというか危険でわくわくする食べ合わせですね。確かに言われてみれば筒井康隆がハルヒがいいというのもなんか想像できる。

    >つまり「バランス良く」よりも「キャラの立った、極端な濃い味付け」が好まれる傾向――を指摘したが、ラノベも同様なのかもしれない。
    あー、わかる(笑)。ケチャップとかそういう味に近いかな。わかりやすくて親しみが持てる味だけど、なんでも同じ味になり、濃いけど深みがあるわけではないという感じっぽい(ボロクソにすみません、ケチャップは好きです←)。

    わたしが高校ぐらい(だから10年前ぐらいか)のころのラノベって、ハルヒにデュラララ!!に文学少女に狂乱家族日記、氷菓といい、どっちかっていうと、普通の文芸よりもある種凝っていて難解な、独特の文体や世界観の物を差していたような気がします。ぜんぜんライトじゃねえと思ってましたもん。でもあの頃は確かに高校生がラノベ読んでました。

    かわって今は読んでいて気持ち良くなるようなストーリーと読みやすいものが主流って感じがします。読んでる年齢もたぶん30代とかが多いのかな? 今後もどうなっていくんでしょうね~
  • ですよね、そら筒井康隆はハルヒを褒めるでしょって感じがしますw

    ジャンクフードも好きだけど、たまには凝ったお味のお料理も味わいたい、なのだけど、舌って鈍るのね……っていうのを、私もしみじみ実感してたりしますー。良いものに定期的に触れてかないとダメですよね。

    バッカーノとかデュラララ!!とか氷菓とか、私はアニメしか見てないけど、今とはなってはライト文芸って感じですよね。氷菓なんてキャラ立ち青春ミステリーで一般文芸扱いなのでは。
    その頃の作品群が質が高くて、その頃ラノベを読んで大人になった人たちは一般文芸も読むし、web小説も読むのではって思ってます。

    とにかくストレスフリーが叫ばれてますからねー。なろう系はまさに「読んでいて気持ち良くなるようなストーリー」で競って過酷なランキング争いをするのだそうですよー(。-`ω-)

    どうなるんでしょうねー。読み手としては面白い作品を読めればそれでいいのですけど。

    てへ。私はこういうレポートをまとめるのが苦手だしメンドクサかったりもするのですけど、楽しみなんて言ってもらえると続けようって思えます(*^▽^*)
  • リトル・ルナの感想ありがとうございました! 返信書きました! 取り急ぎ!

    あと、筒井康隆は「ビアンカ・オーバースタディ」っていうラノベ書いてます。表紙と挿絵(フルカラー!)はハルヒのいとうのいぢさん(まんまじゃん!)。だいぶ前に買って、未読ですけど、内容はほんとにいわゆるラノベっぽいです。手元の角川の文庫には二〇一八年星海社より単行本として刊行って書いてますね。
  • うお、まじでライトノベルですね。七十七歳でこれを書いたのがすげえ。
    初出は2008年8月のファウストなのかな。だとしたら上記の座談会での発言の時期とかぶります。なんかもー、すごい人ですね。

    私は『このミステリーがひどい!』で『ロートレック荘事件』が褒められてたから読もうと思って買ってあるのだけど積みっぱなし……

    まーとにかくすごい人だ。
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