届けたくて守りたくて ながれる涙はどれだけ美しいんだろう♪ 『心情呼吸』by 近藤晃央
というわけで、恋心を自覚したゆかなんが泣ける日はくるのでしょうか?
「隷属少女は断れない」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890789292 ラストスパートの前にこちらはいったん放置して、久々に読書メモいきます。
『世界をわからないものに育てること 文学・思想論集』加藤典洋(岩波書店)
雑誌掲載や講演、寄稿文などを集めた論集。テーマ別で三章建てになってます。第一章は「災後と文学」。第二章は「文学の二〇世紀以後」としてソ連の小説家ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』の考察、またカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を同作の映画版を導入しながら紐解いています。
同じく二章で取り上げられている、国語教育論上で興った「ナンデモアリ」な〈読み〉が量産された「八〇年代問題」を克服するべく現れた「〈第三項〉の理論」、ここから更に氏が展開する「可能空間」という考え方が興味深いです。
つまり、読書行為において、ちょっとの「空所」は読者にそこに何があるかを考えさせるけど、謎だらけになると関心が途切れ読者は本を閉じる、という。作者が支配的過ぎても読者の自発的な反応を奪ってしまうし、読者の反応だけを見てしまうと「可能空間」は消えてしまう。……これはあれだな、テクストと読者が「相互主観的な」関係を持つには、読者にだって力が必要だよね、なんて思ってしまった私は作家ファーストと詰られても仕方ないのですけどね、ええ。
第三章「時代の変わり目の指標」は文庫解説や書評を集めたものらしいですが……なんといっても加藤典洋氏ですから、最後は村上春樹の短編数作を取りあげてます。最近の若者像と恋愛観について触れてるところで、
「普通の世間のなかで考えられたふくらみのある「不安な決定」というより、先験的な理念に経験から離れて動かされた「貧しい正解」」(p260)
という文が出て来て、この「不安な決定」と「貧しい正解」の間でもみくちゃになってる、これが今の社会・世界情勢だよなあなんて感じてしまったのでした。
ここからは第一章「災後と文学」についてもっとつっこんで行きます。お暇な方はお付き合いください。
震災は文学に影響を与えるのかって問題に対して、
「このたびの震災をへて、人々は「感動」しやすくなった。その証拠に人をやや安易に感動させるタイプのベストセラー小説、そのテレビドラマ化、映画化作品の波状的なブーム現象が震災後の社会の特徴になった」
「人を感動させるために、「反戦小説」仕立てのほうが都合がよいとなったら、「イデオロギー」抜きで、というか(自分のものでない)「イデオロギー」までを(作品用に仮構して)読者を「感動させる」ための道具とする新しい種類の作家たちが現れてきているからです。」
「ですから、この「感動」させるためにどんなものも利用しようという「愚劣」というのが似つかわしい新小説家の作品に対しては、私たちが日常目にする、被災者のエピソードについ涙するばあいとは異種の新しい「審美的なリテラシー(読解能力)」をもたないと、もはや対処できない。」
「ここには、三・一一以後の、無意識に人々が「感動」を欲する「感動社会」化とも呼ぶべき新しい事態に対する私の危機感があります。」
と書かれてます。
そしてこの「感動」の動きに抵抗する、また震災後の「新しい文学の動きをもっとも先鋭に代表している」作品として柴崎友香の『わたしがいなかった街で』が読み解かれていきます。『わたしがいなかった街で』の語りの構造を氏は「復元話体」と呼び論じています。
私はこの「復元話体」が気になって、加藤氏の考察を読み進める前に『わたしがいなかった街で』を読んでみました。
『わたしがいなかった街で』柴崎友香(新潮社)
ここから語りの構造についての解説みたいになるので、先入観なしに読みたいという方は引き返してくださいね。
この小説は主人公砂羽(わたし)の一人称語りで物語が進みます。元夫の浮気が原因で離婚、引っ越してきたところから物語が始まる。砂羽(わたし)は戦争ドキュメンタリーを見るのが趣味で、その鑑賞シーンが作中で何度も登場します。このドキュメンタリーの内容について、わたしは詳細に語ります。わたしは消え、その画面の中に語り手が入り込んだかのように。ここでまず違和感を感じられます。
やがて友人の中井との電話のやりとりの合間、「」付きの会話文の合間に、「中井は」という視点を中井に置いた三人称のようなくだりが差し挟まれます。
これが加藤氏が言う「わたしが、他人の経験を他人からの見聞をもとに想起したうえでその他人を視点人物に場面を復元して語る」=復元話体です。
最初にこの復元話体が登場する時点では、会話を挟んで再び「わたしは」という語りに戻るので、人称のブレとは感じないのです。
復元話体の元となる「他人の経験」はしばらくは中井に固定され、中井との電話や直接会ってのやりとりの間に出現します。その中井の経験の中にふたりの共通の友人であるクズイの妹・夏が登場すると、復元話体は加藤氏いわくダイナミックに展開されるようになります。
つまり、前置きなしに「夏は」で始まる三人称のような語りが登場するようになるんです。砂羽と夏は会ったことがないはずなのに。わたし(砂羽)が、夏が中井に話したことを中井から聞き、再現している「復元話体」ってことです。
復元話体はこの場面までの間に段々とグレードを上げて示されるので、普通に読んでいても、ここも砂羽(わたし)の語りなのだなって受け止められます。この誘導の仕方がうまいなって思いました。
でもそのうち、やっぱり違和感を感じるようになるんです。夏が中井に話したとは思えないような内容が出てくるのです。そこで加藤氏は、作品中では語られていない部分、読者には示されてはいないけれど、砂羽(わたし)と夏はどこかで会って直接話しているのではないのか、という過程を示唆しています。この語られない部分が、作中では一言も語られていない「震災」と重なるのではないのか、と。
終盤には、砂羽(わたし)は登場せず、夏が四国を旅行する復元話体で物語が進み、夏がバスの窓から夕陽を見つめる美しいシーン、そこで「わたしは」というモノローグが差し込まれます。この「わたしは」誰なのか、批評家でさえ読み解けない人がいるようだけど、どう考えても砂羽なのですよ。砂羽(わたし)が夏の視点で語っているわけですから。
(ですから、この作品が『移人称小説の問題』で取り上げられるのは違うよなあ、と。『移人称小説の問題』はいずれじっくり取りあげます!)
物語はこの夏の視点のまま、終わってしまいます。夏が砂羽(わたし)の代役のように大阪京橋の空襲跡地を訪れ、そこで出会った老女から戦争体験を聞いて終わります。わたし(砂羽)は登場しないまま、わたしがいない場所で。
この作品の中で多くを語らない、読者の感動に訴えない姿勢は、第二章で紹介されてる「可能空間」にも当てはまると思いました。
大多数には理解されないかもしれない、感動されないかもしれない。でも、すごい人からすごいって認められる。
私は、すごい人からすごいって言ってもらいたいなー。それにはどれだけ書けばいいのだろう……。うん、そう。とにかく書かなきゃ、だね。