先日のこと、岩波文庫の『モンテ・クリスト伯』の第一巻を求めました。
まぁ、一巻買うのがやっとだったんですが……(笑)。
岩波文庫は高いですね。この第一巻のみでも1122円かかるという。もうかなり昔の古典小説なのですから――当然、著作権は切れているわけで――こんなに高額にしなくとも、とは思うのですが、それはさておき――
少し前から、当カクヨムで連載されております「とある異世界もの」を読んでおります。
これがもう、すごい。プロの作家が手掛けた、いわゆる「なろう系」で、「ざまぁ系」なんですが、誤字脱字の嵐! 言葉の誤用も多いし、推敲もてんでされていない。情景描写なんか皆無に等しい、会話劇だけ! びっくりしましたよ。
でも、すさまじい面白さで、「これが書籍化作家のもつ才能か……!」と、打ちのめされております。当該作品は今もなお連載中で、毎日のように読者から、やれ「あそこの文章が変だ」、やれ「漢字が違う」などと突っ込まれながら、毎日続いています。当然、読者からのポイントも非常に高い……。
なぜこんなしっちゃかめっちゃかな作りの、小説にもなっていないものが? と切ってしまうのは容易いです。ですが、それ以上に「すげえ面白い!」と感じた、己の感性をちょっと考えてみました。そのきっかけとなったのが、先の『モンテ・クリスト伯』だったのです。ここで前述の内容と繋がるわけで。
――岩波文庫版『モンテ・クリスト伯』は、そこそこ古い邦訳なので、言い回しが当然古臭いんです。お堅くて現代的ではありません。しかし、知っている方は言わずもがな。面白いんですよね、これ。
私は小学生の時に、短くまとめられた少年文庫版を読んだだけだったんですが、その内容の濃さ、人間ドラマや復讐劇の痛快さや胸躍る冒険などなど……素晴らしい歴史的名作であることに違いはないと思っています。
で、原書に一番近いであろう邦訳のなされた、この岩波版を読んで非常に驚いたわけ。
なんでかっつーと、まず情景描写なんかほっとんどないのね!
各回の冒頭に、「こんな場所にこんな連中が集まっていた」みたいなことが固まりで書かれていて、あとはひたすら会話劇。その訳の古くささを除けば、これ、ほとんど「なろう小説」と同じ作法じゃないか、って……。
そう、先述した「ざまぁ」小説が全くと言っていいほど同じ作りだったんですね。
これが何を示しているのか? 少し考えてみました。
以前より、小説とは「人間の感情の機微を文字で書き表したもの」――という、一定の「定義」があるということは、文学世界における『定説』であると述べております。この定義にきちっと当てはまっているんだなぁということが分かったんです。小説っていうのは、だらだらと世界観の設定やら作者の信念やなんやらを垂れ流すものではないし、ましてや美文名文に酔うものでもない……。そういう書き手の意思が如実に立ち現れていました。
『モンテ・クリスト伯』が、濃密な人間ドラマの果てに訪れる「ざまぁ」系の元祖であることに間違いはありませんが、そこに特化しているのが何よりの特徴である――と。
いわゆるMMORPGにおける「パラメーター全振り」ってやつ。小説でも、これは同じことが言えて、目的に特化させた「書き方」が正解に近づくための「手段」であり「作法」であるのではないか、と。そんなことを感じています。先述の「ざまぁ」小説も、この点からまったくブレていない。ここが重要だと感じました。
また、『モンテ・クリスト伯』が、当時の《ウェブ小説》であったことも大きいでしょう。
そう、新聞連載作品です。
ゆえにその構成やセットアップの仕方を、よーく咀嚼するようにして分析しながら読んでみると……ああ、確かに主要キャラクターは序盤の三回目でほぼ出そろっている! 主人公・ダンテス(のちの伯爵)に、あとは敵役の三人男。みな癖のある人物として会話劇で描き出されます。対するヒロインであるメルセデスは、その登場こそ遅めなものの、これはダンテスの冒険行に絡むキャラクターではないので、それでよいのでしょう。
この「立ち上げの速さ」、「不要な部分は一切省く構成上のいさぎよさ」。それによって見えてくるログラインが秀逸なのです。
もちろん連載三回目時点では「これは復讐劇になるな」とは見えないのですが、悪役三人が主人公を陥れる流れになるであろうことは、はっきり読み取れます。言ってみれば「期待を裏切らない」造りなのだ。そういう意味では、著者であるデュマが仮に現代によみがえったとしたら、間違いなく「なろう小説」を描くでしょう。
逆に言えば、面白い連載小説の作法というものは、もうこの時代には確立されていた――そう言い切ってしまっても過言ではないのか。そんなことを想いました。