ルナとの対峙

マドモアゼル愛先生の占星術解釈について、すごく納得している。
彼の周波数の試みも、初期の頃に実際に音叉を購入して試したことがある。その後、わたしには必要がないと思って、知人に格安でお譲りした。

周波数を発生させる装置=安定的にある意識状態を外的ストーリー的に生み出す依代、的なものに頼ることがわたしとしては、型枠にはめられる感覚がある。
それは、わたしが散々、平均律の楽器を通して味わってきた違和感であり、それが平均律でなくなったとしても、方向が逆ではないかと思うのである。

その周波数にわたしが先にととのってから、音が鳴る。
音が鳴るのにひきずられてわたしがととのうのではないだろうと思うのだが、
愛先生、ここのとこはどう思ってらっしゃるんだろうか。

彼のブログでの、月光反転法の話は非常に腑に落ちる。
月がもたらす「ほんとうらしさ」についてわたしは非常に嘘くさく感じているからだ。ついったーを衝動的にちょっとリセットしたのもこのことが絡んでいる。

感情を正確に記述したつもりの言葉は、すべて外に対して反転して誤解を生む。
パラレルワールド=ばらばらに物質的に分岐した世界、という概念はちがうのではないか、という愛先生。わたしもそう思う。

うまく書けないが、霊的な世界のモノ扱い=ホメオパシー とも似ていて、
両者とも、微妙なところで扱い方を間違えれば薬が毒、という世界であるということだ。このセンシティブさに開いて生きている人はいったいどのくらいいるだろうか。

愛先生のブログを貼っておく。
http://www.love-ai.com/diary/index.php?id=1641

「逆月」、、これだ!

この記事を読んでめちゃめちゃはっと気づいたことがあった。
よく、満月の光に晒してフラワーレメディなどを作るよね。
なんでか、という。

そしてだ。以前住んでいた京都の八幡から枚方の堺には、
もちろんあの石清水八幡宮があったが、その周囲にもいろいろないわくつきな
場所があるのだけど、地味だけど、謎な場所、それが鏡伝池だ。
結構な大きさの池で、名前の通り、昔はそこに映る月光を愛でていたはず。

だが、あの池、官営になっており、夕方で柵が閉じる。
月が見える時刻に中に入れないのである。
月が映るのを見られなくしてあるのである。

なんでかなとずっと思っていたが、納得である。

なるほどね、、、これから、満月には、器に月光を映して愛でよう。
「盃」に映すのでもいいよね。

ここしばらく、月に取り憑かれたように気持ちが滅入っていた。
毎年恒例の季節性の鬱のような、調子の悪さもそうだが、
完全にそれだけではない何か、世界に対する幻影感覚が最強に強かった。

そうか、このことに気づきたかったのか、、

ティピカルな星読みでは、わたしは今日、社会的な意味でのひとつの節目、
みたいなことになるのであろうが、
奇しくもまったくそういう意味とは反転したことが日中に感じられ、
そして夜には、こちら方向の大きな気付き。

この世のからくりについていろいろ思う。

愛先生のお店は、わたしの今住んでいるところから自転車で行ける範囲だ。
いつかお邪魔して、玉虫のからくりのお話をしてみたい。

ネットの記事で、わたしが今住んでいるエリアは、東京の中でも
とても住みやすいエリアとしてランキングに入っていた。

月に憑かれた価値観における「住みやすさ」が、
まさに今わたしをエネルゲイア的に非常に苦しめている。

ありとあらゆる反転について、この際しっかりと感じきっていきたい。

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