ふと、松花堂昭乗のことを思い出した。
昭乗は、とても謎めいた人だ。
京都に住んでいた時、家の近所に昭乗が住んでいた庵を移築した
記念館があった。長く住んでいたのに入ったのは確か2度だけだ。
松花堂という名字に、多くの人が脳裏に描くのは弁当の方であろう。
あの松花堂弁当の元ネタである。
昭乗が愛用していた、画材入れを、弁当箱にしてみたらどうか、
とやってみたら偉い流行った、みたいなことらしい。
つまり、松花堂弁当と、昭乗その人の人生観、彼の魅力、
とは根本的になんの関係もない、否、ほぼ真逆、的な、、、
昭乗が住んでいた、男山の中腹の、庵の跡地はすごく好きで、
散歩がてら何度も訪れていたっけ。
メシアンが小躍りしそうなくらい、全方位から野鳥のさえずりがこだまし、
なのに、とても静まり返っている、落ち着いた豊かで簡素な場所。
その建物だけを、とってつけたみたいに、違う場所にたてて愛でたって、
昭乗が愛した世界とはまったく違うのだ。
なのに。
人はすぐ、「かたち」がリアルだと思いこむ。
確かに、空間に人は影響される。多大に、影響される。
だけど、それに引きずられて生きるだけ、では、人間として虚しくはないだろうか。
千利休が、権力者に重用されつつも、最後は殺されてしまった、あの感じ。
ステーキの横の、決して食べられることなくロンダリングされ続けるパセリのような位置を生きることは、確かに力学に守られて安泰かもしれないが、
常に生きた心地がしないのである。
そのことをあらためて思う。