掲題の通り、吉田篤弘著「ソラシド」を読了しました。
これも練習、ということで感想をひとつ。
この本は、あらすじを説明するのが私には、非常に非常に難しい。なのでズルをして文庫本の裏を引用します。
──「冬の音楽」をテーマに演奏していた女性デュオ〈ソラシド〉。それから二十六年後、「兄」と「妹」はソラシドの音楽を探して記憶の中の場所を訪ねる。もつれあう記憶と心を解きほぐす物語。
改めて読んでみて、こんなに見事なあらすじはあろうか、と感動しました。このあらすじを読んで、興味を惹かれて手に取った人は、まず間違いなく満足したのではないかと、思えてなりません。
著者である吉田篤弘さんの本は好きで何冊か読ませていただいていますが、この人の「東京」の描写はもう、たまらないですね。狭い路地の室外機に積もった土埃のにおいや、異様に家賃の安い都内築年数半世紀以上のボロアパートから漏れる灯りを想像させる情景描写。読んでいると、深夜の東京タワーの鉄骨に座りながら読んでいるような気持ちになります。
今回読んだ「ソラシド」も、まさにそういった「都内」の空気を目一杯含んでいます。しかも、1986年とその28年後──2014年の空気両方を味わえるので、お得感すら感じてしまいます。
私がこの本の中で、特に気に入った一文があります。
(以下、本文引用)
“オーに見せたかったのだ。彼女が生まれた頃、生まれる前、あるいは、まだお母さんのお腹にもいなかったとき──そうした時間を、彼女は「そんな昔の話」と切り捨てたが、
「そんな昔でもないよ」
と教えたかった。”
ここがもう、じいいいん──ときて。
“オー”というのは主人公の“兄”の妹にあたる人物なのですが、この兄妹は異母兄弟で、随分と歳が離れています。だから、というか、時間の流れ方にまだ大きな隔たりが、この兄妹の間にはあります。いわば親子ほど。
私はこの一文を読んで、幼い頃の家族との会話を思い出して、実家に飛んで帰りたくなりました。
昔、という言葉はかなり主観的で曖昧なものです。どこからが「昔」になるかは、生きた時代によって千差万別でしょう。それを一番最初に感じたのは、私の場合は家族との会話でした。
「あなた、〇〇が好きだよね」
「それ、だいぶ前の話だよ」
みたいな。
あのとき、オーのように切り捨ててしまった“だいぶ前”の話を、最近の話のように家族としてみたい、と思いました。
読み終わった時、ふと夜中フラッと散歩に行きたくなるような、心がさらっと心地良くなるような気分になります。まさにこんな熱帯夜におすすめの一冊です。
もうひとつついでに。
掲題の文学フリマ東京39の頒布物進捗について。
元々ひとつの架空の電鉄を用いた短編集にしようと思っていたのですが、書き始めた一編が、“今のところ”進めるのが楽しくて楽しくて、思ったよりも長くなりそうです。
そろそろ、内容やあらすじ、本文の一部などをSNSに掲載して細々宣伝をしたいなと思うのですが、なにぶんイベントごとに疎いので、どう宣伝したものかなあ、とぼんやり悩んでいます。
とはいえ、まだ楽しんでいる範疇です。きっと11月辺りにはヒイヒイ泣いていると思うので、今のうちに余裕を持って楽しんでおきたいところ……