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【短編小説】夢と歩く。

「あぁ。こんなに幸せそうな顔をして」
母がそう言って、亡くなった父の頬を撫でている様子を美津子は見ていた。
つい先日まで話していた父が今は棺桶の中で横たわっている。
美津子を見つめながら微笑みかけていた父の表情が嘘のように肌の血色は消え、入れ歯が外され開いた口と瘦せた頬が美津子の視界に映った。
まるで違う人物を眺めているような感覚になる。必死に生前の様子を思い浮かべ、お坊さんの説法に耳を傾ける。
みな肩を震わせて泣いていた。亡くなった父を尊ぶため集まった知人たちは同じ想いを共有する友となった。
時が経てば次第に美津子の瞳にも涙が溜まり、ゆっくりと頬を伝っていった。
美津子の様子を見てさらにもらい泣きをする人もいれば、渦中の苦しみのあまり目を逸らす者もいた。

美津子は涙を流しながら、再び父の様子を確認するために視線を落とした。
周囲の反応と比べて美津子の心中は穏やかであった。
涙を流すことは演技を生業としていれば日常茶飯事であるし、映画のスクリーンの中で切り取られた世界に没入すると観客は自然と涙を流したくなるものだと理解していた。

美津子には今の状況が実感のないものに白けて見えた。
まるで自分の存在が周囲から孤立したような感覚。
その感覚に人生で何度か感じたことがあったが、今回も似たような感覚に苛まれた。
同調しようと思っても、身体は反応できるが自分の心までは同調できない。身体と心が乖離した感覚。自分を外から俯瞰し、周囲がそれを観ている錯覚。
美津子にはそれができたから役者に成れたのだろうし、敏感に雰囲気を感じ取れるからこそ良い演技ができたのだろうと感じる。
しかし、周囲の憧れの目線は美津子の孤独感を解消してくれるものではなかった。
どうして、みんなはこの人のために泣くのかしら。
美津子は過去に想いを馳せる。
小学生のころ、父と母は毎日のようにケンカをしていた。
居間で美津子がテレビを見ていると後頭部にまな板が凄い勢いでぶつかったことがある。
父がキレてまな板を床に叩きつけてそれが美津子に当たったのだった。
母は泣きながら私に駆け寄ってきたが、父はそんなのは意に介さず暴言を吐いたままその場を去っていった。
晩年の父の身体は弱りそんなことをする体力はなかったが、若いころは日常茶飯事だったのだ。
美津子の先ほどの問いかけはこの過去を体感してもそれでもこの男を見送れるのかということだった。
母親はあなたも寂しいでしょうと美津子の背中をさすった。
美津子には自分の背中をさする手の暖かさが自分の体温と一体化し、無機質なものへ変化していくあり様が分かる。
美津子は母親の横顔を眺めて、その外面の内に潜めた心は何を考えているのかと問いかけたくなる。一番被害を被ったのはあなたであろう。毎日のように罵詈雑言に耐え、生きてきたあなたがどうしてあいつの為に涙を流せるのか?と。
良いところもあれば、悪いところもある。
そうやって己の心と折り合いをつけてきた母親世代は私の心など推測することは不可能だろう。ロマンは語れない。付き合って別れてを早ければ1年経たずに繰り返す私たちの世代に永遠なんて言葉は無い。仕事もいつまで続くか分からない。定住することもできない。そんな環境で映画のスクリーンから映し出されるヨーロッパ風の優雅な早朝はもはや夢物語でしかない。


「なぁ。その立ち位置から身振りへの流れ。もっと軽やかにできないか?君の表情はとても魅力的だが、たまにその瞳が怖く見えるんだ。」
三脚とローラーがついた移動式の大型カメラを美津子に向けながら、映画監督が私にリクエストをした。
まばゆい照明の裏側に見える監督の様子に目を凝らしながら、私は受け答えをする。
この映画は先日、私が葬式で想いを馳せた旧式のライフスタイルを魅せる映画だ。タイトルはまだ決まっていないらしいが、花柄のワンピースに真っ白なつばの付いた帽子をかぶせられ貴婦人のような役を任されている。
少し発色の良い真っ赤な口紅を塗り、広い庭に植えてある木の陰から人工芝に置いてある簡易プールで戯れている子どもを眺めている様子を撮影されている。
そういえばあの子役は撮影が始まる前に私のような女優さんになりたいと言っていた。

美津子は胸の内から湧き出てくる破壊的な衝動を抑えながら、なんとか口元からその気持ちが外面に露出しないように気を付けていた。
あの子役はいったい何を期待しているのだ。
彼らはまだ何も知らない。期待も裏切りも。
この世は喜劇や悲劇のように単純ではないし、自分の自由にはできない問題がたくさんあるというのに。

そういえば私も彼らのように何も知らないことに悶々としていた時期に昔世話になった劇作家に作品作りについて尋ねたことがあった。

「あえて格好をつけて言えば、生きた証を残したいんだよ」
「なにその自己顕示欲。だったら私のように役者になってフィルムに収まれば良いじゃない。」
美津子はバーのカウンターでグラスを劇作家に向けて反論した。
「作品にはね。自然と作家の生きてきた痕跡が残るものなんだよ。
作品世界を作り上げるためにどんなシーンを選ぶか。どんな人やモノを登場させるか。僕は画家じゃないからさ、知らないものは描けない。だから自然と僕が描いたものは僕の生きてきた痕跡から発想されたものになるんだ。」
「作品が誰かの心に残り続けるって?馬鹿言わないでよ。作品は消費物なの。リッチな体験じゃない。劇場のスクリーンで以下にも壮大でリッチかのように見せているだけ。あなたが言っていることは欺瞞だわ。大衆の他の作品だと外面を見せて、細かい部分で本筋とは違うものを仕込んで、あなたは憂さ晴らしをしたいだけでしょう?」
「そんなこと言ったら役者だってそうだろう。新人の卵は毎年出てくる。今の若者がいろんな女を取っ替え引っ替えするように、推しも変化していく。
所詮、役者の価値は作品の人気を転嫁したものに過ぎない。思い上がるなよ」
「そういうあなた達は人気の役者を足し合わせてPV稼いでいるだけじゃない。自分の力に自惚れすぎよ。
貴方みたいな人の手柄を横取りするような考えの人が子どもたちに良い夢を魅せてるなんて、笑えてくるわ」
「それは商業的に成功を収めるためにやってるんだ。作品づくりとは無関係だ」
劇作家の拳に力が入る。
「そういえば君、付き合っていた彼とは別れたんだろう?」
「なによ?旗色が悪くなったと思えば、人格攻撃?」
「君は我慢強さが足らないんだ。芸事は辛い修行を耐えて耐えて、精錬させていくものなんだ。」

続く

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