皆さんお久しぶりです、ゆいつです。
学校も夏休みになりましたので、僕は穏やかな日々を過ごしております。ナツガタリの締切も近く、執筆作業を急がなくてはなりません。間に合うか心配です。
今日は八月十五日。終戦記念日ですね。
ネットでもテレビでも、太平洋戦争に関連した特集が組まれています。悲惨なのはもちろん伝わってきますし、心に訴えかけてくるものもあります。
でも、僕はいわゆる平和教育が形骸化した時代の都会に生まれました。語り部になる方々も周りにはほとんどいないし、聞いたとしても遠い歴史のことのように思えてしまう。正直に言えば、戦争にかかわる教訓や祈りに興味の抱けない子どもでした。
たぶん、全ての遺産は共感力の高い一部の人のためだけにあって、何も感じられない僕はずっと蚊帳の外にいるんじゃないかとすら考えました。戦争のことを知識として蓄えたとて、その記録に感情を乗せることはどうしてもできなかったのです。
今日、僕が掌編小説を投稿したのには、この想いが関係しています。
日本には僕のような若者がたくさんいると思います。平和が大切だと理解しつつも、過去の歴史と繋がることができず、形骸の中で、何かを思うフリをする。そして、本気で偲ぶ人を見て、温度差に驚くとともに、自分の祈りが空っぽであることを理解する。それを、ほんのすこしだけ寂しく思う。少なくとも僕はそうでした。
だからこそ、僕は僕のような人から見る「平和」の形を静かに書き残すことを選びました。
都会に住む二人の中学生が区の平和展に行く話。形骸の中にも生まれうる想いを肯定するために書いて、戦後八十年の節目に捧げることにします。
作品のURLは末尾に置いておきます。
もしよければ、読んでもらえると嬉しいです。
①掌編小説「形骸」
https://kakuyomu.jp/works/16818792437883526347