「これがちゃんとした現実なのか、そうじゃないのか。もし違っていたら、眠った時にこの世界が途切れてしまうような気がして少し不安なの」
と檜佐が碧に吐露するこの言葉のことです。
「心水体器:リリウム」の〈内的損傷〉です。
檜佐はこの時肢闘のコンピュータに残された自分の分身、人格としてのプログラムの存在を知って自分の存在の不確定性に心を揺すられている。
アイデンティティの発散、という言い方をすればもうピンとくるでしょう。
この発言は「メソポタミアの蛇ノ目」の方のテーマに接続しているわけです。
少なくとも僕は「リリウム」を直していてこの部分を読んだ時にそう感じました。これは「メソポタミア」だな、と。
でもそれは道理なのです。なぜなら「メソポタミア」を一度書き上げたのが2016年の10月、「リリウム」は説明によると2017年後半なのでだいたい一年後。僕の長編のペースがだいたい年一なので、制作順でいうと「リリウム」は「メソポタミア」の次の作品にあたるのです。
次に書いた作品だからテーマも似ている、という解釈はちょっと安直。
そりゃまあ他に問題提起が思いつかなかったという事情もあったかもしれない。
でもそれだけじゃない。「メソポタミア」の思考実験と対話による追究では判然とした形にならなかったアイデンティティというテーマを具体的かつ物理的に解決できるような形を僕は「リリウム」に求めたんじゃないだろうか。
思い返してみるとそんな気もする。むろん「リリウム」は真正面からアイデンティティに挑んでいく作品じゃないんだけど、アイデンティティの一側面を扱っていると捉えることはできるはずだ。そして「リリウム」はそれを肉体的条件に求めたのだ。
安直だろうか?
後半を読めば結局微妙な問題に回帰していることがわかるかもしれない。
真理なんてものは単純明快であってはならないのだ。
そういう考え方が僕は好きなのかもしれない。
「心水体器:リリウム」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886002067「メソポタミアの蛇ノ目」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886979475