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@kmurry1969様への返信

返信を頂いておりましたのに、気付かずに申し訳ありませんでした。
コメントの編集は通知が来ないので・・・
https://kakuyomu.jp/works/16816700426425794493/episodes/16816700426505243643/comments

>さゆに乖離がある根拠を記述されているのですが、アニメ10話証明で「それは赦しでもあるんだけどどうしようもない現実」と吉田に吐露しています。
>これは逃避行の記憶がはっきりと残っているとも取れます。

こちらについて返信させて頂きます。
まず、沙優には解離の兆候は見られますが解離(二重人格)はありません。
(その微妙なさじ加減は難しく、小説版・カクヨム版の「悪夢」は、ちょっと行き過ぎた表現のようにも感じます)

そしてアニメと小説で決定的に違うのが、小説の中では男性に抱かれた事について漠然とした事は言えても、「辛かった」などの言葉は出てこないという点です。
アニメでは逆に、母親の前で嫌だったと伝えております。

沙優の赦し・現実の言葉は抽象的で、どこか自分のことなのに自分のことではないような感じがします。
何に対する赦しなのか、誰に対する赦しなのか? まず「赦し」という言葉を使ったことがその意味を表現しているように思えます。
今更、身体を使ったことが悪い事だったと言いたいのでしょうか?

ここで言う赦しとは、自分自身に対する赦し(つまり後悔がある)であり、自分自身にのしかかってくる「現実」ではあるのですが、そんな感じを受けないのですね。
沙優は自分が通ってきた道を肯定できなかったけれど、あさみが肯定してくれたことで救いとなったわけですが、そんな感じを受けないという意味です。

どうして、そう感じないかと言うと・・・
アニメで語った、自分の通ってきた道が「嫌だった」という感情の吐露が小説には無いからなんです。
そんな感情があるから、「自分が通ってきた道を肯定できない」というのが生まれ、あさみに言葉に意味が生じるわけです。

そういう点から、星空を見上げた当時の沙優は、沙優の人生でありながら、どこか別人の人生として感じている部分があったと思うのです。
実は私の妻がそんな感じがあり、イライラ状態の時の記憶は曖昧となり、穏やかな時に話を聞くと「自分の身体なのに自分ではない感じ」と語っています。
もちろん完全に記憶が無くなるのではありません。
また専門家によると自覚しているので「解離」ではないが、それに近い状態との事で、沙優もそれに似た感じではないかと思うところです。

なお私は、アニメで沙優が「嫌だった」と言ったことで、初めて自分の心(過去)と向かい合えたのだなと感じました。

2件のコメント

  • お忙しい中返信ありがとうございました。

    その後解離症状など検索レベルですが調べてみたのですが、解離でも比較的軽度な「離人感」が一番しっくりくるなと今では思っています。その前提であれば水鏡先生の仰りたいことが今ではよくわかります。

    おそらく沙優は、北海道へ帰り母親と落ち着いて話をするまで、自分をどこか高いところから自分を見つめているような感覚であったのでしょう。おそらく吉田と過ごした日々も記憶には残るのですが、どこか第三者的な目でみた他人の記憶になっていくのではないかと思います。それでも吉田との再会は沙優にとってやらなければならない通過儀礼で、それが終わって初めて沙優が自分の人生を歩めるようになるのではないかなと、今はそんな風に思っています。

    読後直後は後日談も読みたいなと思っていましたが、今ではあそこで終わって良かったのだと思います。この辺りのさじ加減は書籍版の方が今の自分の解釈としてしっくりきます。

    蛇足ではありますが、ひげひろ書籍版を読んだ後に、思い付きで10数周目の「ノルウェイの森」を読んでみました。若いころから何度も再読を重ねてそのたびに理解できない小説でしたが、やっと憑き物が取れたというかそんな気持ちになれました。

    ご丁寧な解説ありがとうございました。今後の更新も心待ちにしております。
  • コメントありがとうございます。
    私も原作はあそこで終わるのが良いと思います。
    物語のテーマを考えるとですね。

    更新は延び延びになっており申し訳ありません。
    先週から体調が悪いのですが、今日になっても治っておりません。
    熱は無いのですが、集中して何かできるような状況では無くて……

    早く治して、頑張っていきます。
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