応援コメント

第4話 沙優は男に抱かれると言いたくなかったのか?」への応援コメント


  • 編集済

    昔の記事にレスをつけて申し訳ありません。アニメの初見が2021年12月に入ってからでしたのでご容赦ください。自分でも混乱するくらいこのお話が突き刺さりました。さゆサイドのお話を紡いでくださるとのことで楽しみにしております。

    WEB版原作は拝読させていただきましたが、文庫版原作のフォローアップはまだですので見当違いかもしれませんが、一部腑に落ちないところがありましたのでコメントさせていただきます。

    さゆの性行為に対する考えを嫌悪感から罪悪感・うしろめたさに置き換えてみれば矛盾はなくなるような気がします。罪の意識があるが故にそれをあえて行うことで自らの価値を再確認するということかなと思いました。後ろめたいから答えられない。でもそれを行わないと自己肯定感を保てない。性行為(罪深い行為)を宿の対価にすることで罪の意識に対して贖罪し自己肯定感を維持しているのではないでしょうか。それゆえ何度も吉田を誘惑したということです。

    この前提で彼女の逃避行から吉田に出会うまでの日々は彼女にとっての自傷行為だったのではと解釈しております。

    結果承認欲求と自己肯定感が満たされないがためWEB版原作7話での行動につながったのではないかと。

    さゆが何に怒りを感じたかといえば単純に「あんたに私の何がわかる?」かと。で言ってもしょうがないから反論しないってことかなと思いました。

    いかがでしょうか。

    <2021/12/20追記1>
    御丁寧な返信ありがとうございます。入稿前の貴重なお時間を割いていただき感謝いたします。

    現時点では自分としてはさゆに乖離は見当たらないと思っています。やはり書籍版を読み込まないとだめですね。実は全巻揃ってはいるのですが、タイトルと表紙挿絵のかわいらしさから奥さんに隠れて読んでいる状況です。解説していただいたことを自分なりに咀嚼して書籍版を読み込んでみます。

    ありがとうございました。

    <2021/12/20追記2>
    さゆに乖離がある根拠を記述されているのですが、アニメ10話証明で「それは赦しでもあるんだけどどうしようもない現実」と吉田に吐露しています。これは逃避行の記憶がはっきりと残っているとも取れます。この辺りの解釈については今後の水鏡様の紡いでいくお話を期待することにします。このシーンはとても好きなので期待しております。

    <2021/12/20追記3>
    さゆ兄がさゆを放り出したのはアニメ版でも印象深く記憶に残っています。30万渡してどっか行けと言っているようでこのシーンのためにさゆ兄への印象は最悪でした。確かに仰る通りとどめを刺したのは兄ですね。

    <2021/12/20追記4>
    自己肯定感と存在理由は仰る通り混同しておりました。貴殿の認識で一致しております。


    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    私の見解で宜しければ返信いたしますので、疑問点等がありましたら自由に書かれてください。

    WEB版原作は、私も後になってから(ラノベ・アニメの後)読みました。
    決定的に違うのは、沙優の心の傷の深さのような気が致しました。
    沙優は自分を嫌っており(7話 悪夢 -沙優side)、自分を傷つけるために積極的に性行為をしております。
    仰るとおり、WEB版原作では100%自傷行為として描かれています。

    書籍化に当たって、これは私の想像ですが「自らの意思で積極的に性行為をする」という設定は、一般ウケしないと担当編集者さんに判断され、軌道修正したのだと思います。

    臨床心理を学んだ私から見ても、自分の身体を嫌うという設定は、心の傷として深く(他にも感情の起伏が激しく精神的に不安定などと書かれています)、今後笑顔が取り戻せるような状態に戻るならば、ご都合主義にしか見えません。
    そういう意味でも、傷を浅く設定し直したのは良かったと思います。
    (書籍化版では、沙優は自分自身を嫌ってはいませんし、情緒不安定でもありません)

    それでも「悪夢」の「夢」の部分は、書籍化原作でも残され、解離を意味する表現が使われたままとなりました。
    しかし「解離」があったとするならば、「感覚を麻痺させようとした」という自覚症状はあるはずがなく、細かい点で矛盾があります。
    そのため、二次創作を執筆するにあたって、本当はこのように表現したかったのではないか?という、しめさば先生の意図をくみ取りながら、沙優の心の問題の調整を図りました。

    沙優が抱える心の問題は、母親からの精神的虐待に起因するものと、男性たちに植え付けられたものの、2種類があります。
    当然、前者は根が深く、後者は割と早い段階で傷が癒えています。

    「自分の存在価値は身体」という歪みは、後者から来ています。
    これは男達から、身体しか必要とされなかったことにより生じたものです。
    しかし「誰からも必要とされない」という感覚は、前者になります。
    (兄から愛されていたため深刻化しておらず、傷となったのは兄が去ってからでしょう)

    沙優は母親から愛されなかったため、自己肯定感(ありのままの自分でよいという感覚)が弱く、自分の存在価値を見いだせにくい状態でした。
    兄が親代わりになっていたから、「救いようのない状態」までにはならなかった感じです。
    しかし、兄もまた仕事の忙しさを言い訳にして、沙優を見捨てます。
    これはアニメではカットされ、原作では5巻で触れています。
    そして私の二次創作では、これを第2章から伏線張りしています。

    さて話を戻しまして、書籍化版の沙優の性行為が、自傷行為であったかについては、今では違うと解釈しております。
    「解離」と「自傷行為的側面」は、私は両立しえないと思うのが理由の一つです。
    沙優には完全な解離は見られませんが、原作では男たちとの性行為を嫌だったと語る場面はなく、アニメでも母親の前で一言語るだけで終わっています。
    これはアニメだけでも感じられると思うのですが、あまりにも重すぎる過去が、どこか他人事のように「酷い過去」と語られているにすぎないのです。
    これは明らかに「解離」です。
    (アニメ3話冒頭の性行為は、両原作同様にうわの空で、解離を感じさせるものでしたね)

    つまり、この作品に「解離」は切り外すことができないので、自動的に「自傷行為的側面」が否定されることになります。
    たぶん沙優には、男性たちとの行為の具体的な記憶が、無いか曖昧な状態なはずです。
    漠然と嫌という感覚はあっても、「罪意識」の明確な対象は存在しないため、「罪意識」は起こりえないと思います。
    (解離症状がみられる人に、解離中のことに対して罪意識が生じるのか?という話です)

    また性行為における存在価値については、二次創作の第12話で語った内容のとおりですが、性行為の相手として必要とされる(沙優じゃないとダメ)があるから、存在価値を見出しているわけです。
    ただそれは、自己肯定感とは違います。
    「私はありのままの自分で良い(自己肯定感)」という感覚は、ありのままの自分を受け入れられてこそ感じるものだからです。

    そこで存在価値についてが、kmurry1969様の仰りたいことだと解釈しまして話を進めますが、仰る解釈は、WEB版原作ではそう解釈するのが妥当と感じます。
    沙優は自ら積極的に性行為を誘ってきたという設定ですし、吉田との関係も存在価値を見出す為、性行為を求めているように書かれていますから。

    しかしながら書籍化版では、母親からの心の傷は兄がフォローしており、決定打となったのは兄が見捨てたことが原因(これは私の推測。原作では原因不明)とされ、自身の身体が存在価値と錯覚するようになったのも家出後の一時的なものだと重みが軽くなりました。

    そういう事で、WEB版原作では、kmurry1969様が仰ることはかなり当てはまるのですが、書籍化版では設定変更が加えられているため、違うかなと感じるところです。

    長々と書きましたが、参考になれば幸いです。

    編集済
  • 今回の解釈は実に腑に落ちスカッとしました。原作を幾度なく読み返しても「どうして?」という箇所がありましたが、それは「沙優が甘ったれである」という台詞がピンとこなかったためです。吉田の独善的な正義感から放たれる台詞や心情の吐露が一種のミスリードとなり解釈を難しくしている、と感じておりました。
    これからも第ニ章の分析、楽しみにお待ちしています。執筆頑張ってください、応援しています。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    吉田の独善的な正義感は、吉田の特徴的な部分ではありますが、
    吉田批判の対象になっているよう感じます。

    もしかすると先生は、吉田と沙優の組み合わせだったから、たまたま上手く行っただけ、を描きたかったのかもしれない(それらしきコメントあり)とも思ったりします。

    でも私としては、沙優ちゃんに相応しい素敵な男性にしてあげたいですね。
    それは第二章の末で、少し感じて頂けるかなと思っております。