初めに書いておきますが、批判ではないです。私はら抜き言葉自体に特に嫌悪感はないので。発作的に思った事を近況ノートに書く気になっただけです。
私の中学時代の国語の先生は、ら抜き言葉の事を「受け身と可能を判別できるようになる。これは効率化と言える」と言っていました。
例えば『食べる』なら、受け身でも可能でも『食べられる』になります。しかし、ら抜き言葉だと可能のみ『食べれる』になり、判別できるようになる、と。受け身はら抜きしませんよね。「シマウマがライオンに食べれた」←こうは言わないわけです。
今考えると、きちんと物事を丁寧に考えてくれる先生だったなと思います。
私は昔はら抜き言葉に違和感を覚えていたんですが、最近は「食べれる」「見れる」あたりに関しては、会話の中で違和感は覚えなくなりました。自分は使ってませんが。……いや、ひょっとしたら無意識で使ってるかもw。
素人推測ですが、これはきっと日本語の変化の歴史を目にしてるんですよね。ら抜きは一時の流行りではないでしょうし。これから先「やっぱりら抜きはおかしい」となっていく未来はとても想像できない。ら抜きじゃないと伝わらない時代が必ずやってくるのだろうと思います。私達も「必要にないところに『ら』をつけて、じじばばくさいw」とか言われる日がくるんですよ、きっと。(知らないけど)
でも気になる事が二つ。
「食べられない」って、口語でというか何と言うか、フランクに喋るとき「食べらんない」って言うことありますよね。この『ら』を抜いて「食べんない」とは言わないわけで。「食べれない」だけが生き残って「食べらんない」は消えるのか、それともら抜きが正式となっても「食べらんない」という表現だけ生き残るのでしょうか……。
もう一つ気になる事。「食べれる」「見れる」にはたいして違和感なくなった私ですが、「信じれる」「受けれる」「助けれる」とかには今でも強い違和感。これは何でしょうね。なぜ違和感があるものとないものがあるのか。この違和感は人によってどの程度違うのか……。この辺の単語も、時代とともにら抜きが支持されていくのか……。
専門的に調べようとか勉強する気は特にないんですけどね。ら抜き言葉の事を考える度、「自分は日本語の変化の歴史を目の当たりにしているんだ」と、謎の誇らしさが沸き起こってきます。
この時代に生まれてよかった。
以上。発作的近況ノートでした。最近新作書いてます。作品の再公開は、まだ気持ちが向きません……。