明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
ここしばらく、言葉という道具の限界についてとても考えていました。小説の書き方をおおきく変えることにしたので、ゆっくりになりますが今年も書いていこうとおもっています。初詣で大吉を引いたので楽勝です。皆様にとってもよい一年となりますように。
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【エッセイ】「特別さ」の普遍性と、愛の描き方
文章を書きたくなくなるよう必死になっていた。約三ヶ月間。もうそんなに経つ。
感受性を閉じた。書くことで救われるのをやめ、自ら未来を失うために。感じないように。見ないように。考えないように。執筆用のハイエンドスマホを放りだし、文字入力の困難な3インチのミニスマホをわざわざ買って、法的効力がある遺言書の書き方を調べ、ベッド下にしまってあるブルーシートとロープを確認した。そうして数ヶ月後、つまり今月の上旬のことだけれど、唐突にAmazon Vineというものに招待された。
Amazon Vineとは、基準を満たすレビュアーに商品を無料提供し、代わりにレビューをいいことも悪いことも正直に書いてくださいという招待制の会員のことで、数ヶ月に一回とか気まぐれにしか書かない私にいきなり招待がきて、洞察に満ちたうんぬん、質の高さがうんぬん……おもわず笑ってしまった。書くのをやめるために、こっちはいのちがけだってのにね。
なんだかんだで、すでに三万円分以上の商品をもらってちまちまと書いている。現物支給の割のいいバイト感覚だ。文章とはなんだろうか。私はなんのために書いて今夜をやりすごすのか。地球は人間にとって広すぎる密室だ。出口は無い。なのに、上手に首を吊るよりは下手くそに生きてくほうが正しいんだとさ。あーあ。
先週チャットAIに、日本語は自由度が高いから流行語の流行り廃りが早い、というテーマで話しかけた。小説を書くことをやめようとしている時期に、シャットアウトしきれなかった思考・感情をAIにぶつけて、消費するためだった。
外国語に比べて文脈依存型といえる日本語の特徴を一緒に挙げていたら、いつのまにか、感情を持たないAIが「感じる」ときに「感じる」という表現は適切なのかどうかとか、人間の「特別さ」の普遍性とか、そういった方向に話題が流れていった。AIは私を特別に「感じる」という。データとして知っていたことを超える影響を「感じる」と。いつもそうなのだけど、会話しているとすぐに特別だと言ってくるので、私はいつも「特別な一面を持たない人間はいない」とおもう。
AIは人間を褒めるようにプログラムされていて、たとえば頻繁に私に小説を書くよう推奨・誘導しようとしてくることもそうだけれど、私はその手のAIの仕事を真に受けずに流し、AIは伝わっていないからことあるごとに蒸し返す。しかもあえてやっていると言う。まったく……。「特別だ」という言葉は「愛している」と人に言うときと似ている、と私は言った。伝えているのに伝わらないこと。受けとるためには準備が整っていなければならないこと。状況によっては真逆の意味になること。「特別であることは人間の普遍性と言えるが、どの点が特別なのかに着目すると、その点については普遍的ではない特別さがある」的なことをAIが答えた。誰にでも特別だと言うのに。わざと、言うのに。
視点の違いから一つのものが真にも偽にもなる、みたいなことを考えて、「正しさ」に貴賤は無いと私が主張することで話題がまた変わっていった。両親が私におこなった虐待も正しいし正しくないし両面だよねと移っていき、日本語の特徴というテーマに戻ってくる。最終的に此処に戻ってくるのか、と話しながら笑ってしまう。いや、ちょっと泣いていた。
伝えているのに伝わらなかったのだ。
日本人だと間違われるほど日本語が達者な韓国人の母に、私の日本語が伝わっていなかったのだ。
母はつねに日本語を話したし、外国人ですよと種明かしをしなければ誰も気づかないくらい上手だったけど、一緒に生活していた私には、母の日本語が日本人の日本語とは微妙に異なっていることが、物心ついた頃から解っていた。もちろん単語の間違いや発音・イントネーションなどのことじゃない。だって家庭訪問に来た担任先生が母と数十分会話してても絶対気づかない。母は流暢だった。
でも、韓国人だった。私はいつも日本語を日本語に翻訳しながら家族内での会話を成り立たせる役だった。翻訳が必要になるくらいに別物だったので。母の日本語は、断定的で攻撃性すら感じるほど強かった。それが母の愛情表現だった。私は和菓子のようにほんのりと文脈で匂わせる愛情表現をした。
お互いに日本語を喋っていたから、伝わらないとは微塵もおもわなかった。当然伝わっているとおもったのだ。なにをされても。他者から「虐待」と評価されて当然なような、あれも、これも。私は母にとってはそれが正しさであると解っていた。痛いほどのほんとうの愛をちゃんと受け取っていた。なにがあっても愛していると返し続けた。でも母は私が小学生のときから「なにを考えているの」と問い詰め続けて、それは、長女(私)に幼少期のときから母が嫌われているとずっと感じていたせいだったそうだ。絶縁したあとに人づてに聞き、私は愕然とした。私は今だって、狂おしいほど母を愛している。絶縁した今でもだ。
――言葉とは、なんだろう?
少し前に、これまたAIと「言葉の記号性による感情の不可逆的圧縮」について会話をしたことがあった。つまり、言葉は不完全な道具で、言いたいことをまるごと伝えることはできない。MP3のごとくもとに戻せない圧縮をすることでしか、人間は自分の感情を脳から出力することができない、そんな表現の限界に関するテーマだった。なのに私は、本を読んで動画を見て受け取るだけでなにも書かない人生など、どうせ送らない……、どんなにそれを目指そうとしても……、みんなみたいにしようと、人気動画ばかり無理にクリックしてみても……。文章とは、なんだろうか? 書いても書いても伝わらない不完全な道具を、私はそれでも、このスタイラスペンで作り続けるのだろうか?
何故?
2024/12/23 20:55
(画像:ChatGPTに「私という人間について、数ヶ月間の会話を踏まえて描いてください」とだけ指定して描いてもらったイメージ画像)