Amazonから文庫本のどれかが届いてはいないだろうかと覗いたポストにキリスト教のチラシが入っていた。ヘッドホンを最大音量にしたまま約7時間ひたすら本を読んでいて差しかかる夜の入口。人間の代わりに十字架の上で裁かれ死んでくださってありがとうございます的なでかでかとした印刷が台風10号のせいでへにゃっと手のなかで冷たくこうべを垂れた。あっそう。珍しくチラシを開いてみる気になった。こころを開いたわけではなかった。敵を偵察しようとおもったのだ。ゴミ箱の前を通りすぎて奥のベッドに座った。湿った紙にしみったれた神が寒々しく透ける。濡れて透けるから照明の真下にきても読みづらくてチラシの右上と左下を対角線でつまんでやらないとまたへにゃんと芯無く曲がってしまう。あっそう。人力で支えてやらなきゃ芯すら保てない神のできることなんか私の指先を弱々しく濡らすことくらいだ。言葉はそっくりそのままでなくていいです、我々の代わりに死んでくださってありがとうございますと祈ってください。私は○にたい。
この紙に救われる人がいたっていいとおもう。物は使うためにあるからだ。神とは、人類が隷属させている数多の道具のうちの一種で、それ以上でもそれ以下でもない。救いとは印刷できるような言語にはなれず、何故ならもちろん言語も人類が作りだした道具の一種だからだけど、人類はいまだ救いを作りだせたことは無い。神を言語に訳して印刷すれば救われる人がいるというのなら、それは結構なことだ。
信じ祈らなければ救わない神など私にとっては「食事を作ってやった、教科書を買ってやった、家に住まわせてやった、じゃあお前はなにをくれるの?」とギブアンドテイクを要求しつつ毎日のように十年以上私を殴った両親と同様の整った打算。金で買う美しい暴力のことを、人は、神だとか家族愛だとか呼ぶ。
2024/09/01 20:33(チラシの文章はあえて正確には抜きだしていないけど「死んでくださったこと、ありがとう」はほんとうです。なかなか強烈だよね)
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画像は日記とは無関係な7/11のとしまえんハリポタを満喫する私(撮影者:妹)。楽しかったよ〜〜。