タイル張りの白壁を至近距離で眺めながら思う。
出るわけないだろう!
ここは街中の大病院の検診センタービルだ。病院本棟の隣に建っているが、敷地の中では端の方に位置し、本棟の向こう側を走る国道のさらに向こうに人間ドッグと健康診断の受診者用の専用立体駐車場が立っている。駐車場に停めた車からここまで、結構な移動距離である。今朝のゴミ捨てどころではない。
健康診断や人間ドッグは、基本的に健康な人が受けるもので、病院の患者用の駐車場は敷地内で本棟に隣接して建っており、渡り廊下で数階おきに本棟と繋がっているようだが、検診用の駐車場からは広い国道を横断して来なければならず、その横断歩道も立体駐車場のすぐ前にある訳ではないので、そこまで徒歩で移動して回り道しないといけない訳で、それから本棟の裏手の専用通路を受診者たちの列に並んでゾロゾロと歩いて移動してからようやく検診センタービルに入れるのである。その間、ずっと太陽に照らされっぱなしだ。着てきたTシャツは汗でびしょびしょになった。水分など体から放出されまくっている。尿に回す余裕など無いに決まっているじゃないか!
小便器の前で地団太を踏んだその時だった。忘れていたあの感覚が淀川大を襲った。
便意
急に来た。出てこないといけない奴は出てこず、今頃出てきても遅い奴が出て来ようとしている。
「く……こ、これは……」
雪の中、太鼓橋の上で前後の赤穂浪士たちに二刀流で立ち向かう清水一学の気持ちが分かる気がする。
何故今頃か。昨夜あれ程呼び出したのに! おっせーよ!
淀川大は大急ぎで淀川小を仕舞うと、空の紙コップを握りしめて踵を返した。背後の個室のドアを開けたその時である。そのトイレの突き当りの壁に設置された小窓から、白衣に身を包んだ黒縁メガネの青年が顔を覗かせた。
「出ませんかあ」
「出ます! いや、出ないですけど、出そうです!」
淀川大は個室へと駆け込み、急いでドアを閉めた。検査技師の人だろう。しかし、今は事情を説明している暇は無い!
淀川大は震える手でズボンを下ろし、便座に着座した。
「oh!」
声が出る。便座が冷たいのだ。普段は自宅のトイレで便座を保温機能で温めいるので、冷たい便座に驚いてしまった。
「大丈夫ですかあ」
「……はい。大丈夫です」
語尾を伸ばすな。そして、集中させてくれ!
それにしても、昨夜、強制的に排便しようとして、夕食を二度摂り、アロエヨーグルトを飲んで、カルピスも牛乳も大量に飲んだ。その反動が今頃になって来るとは……。
「すみません。……だ……大の方も出そうですので、検便の方も追加できますか?」
力みながら外の技師さんに尋ねてみる。
返事なし。
気配を探る。
居ねえのか!
さっきの気怠い「大丈夫ですかあ」は何だ!
いかん、集中しろ。今は目先の危険に対処する時だ。
淀川大は意識を集めた。
そして
脱糞。
深く引いた弓から放たれる矢のごとく、威力のある一撃だ。
全てを出し切ると、それを祝福するかのように小も追随する。どこに残っていたのだ、俺の水分たちよ。
解き放たれた鳩のように、それらは便器の中に羽ばたいていった。
しまった! 検尿!
淀川大が握っていた検尿カップに顔を向けた時には、すべての事が終了していた。
吾が剣は既に折れ 吾が馬は斃る
個室から出てきた淀川大は検査室の小窓を空け、中の棚に空の検尿カップを置くと、うつむいたままそっと窓を閉めた。
《つづく》