今回は少しというかこれもまた、多くの作品に見られる書き方が気になったものを書きます。発端としては前から気にはなってたがあまりにも酷いというか「日記かよ!」と思った作品を読んだので……。
どういった内容かというとよくある転生物である舞踏会での一幕。正確な文章は書くのは控えますが私なりにアレンジして例文を書きます。
・A男主人公 B女ヒロイン
Aは目の前の料理を堪能していた。隣でBはクスクス笑ってた。踊っている人をソワソワしながらAを見ていた。Bはダンスに誘ってほしくて待っていた。Aは食べながら踊りを見ていた。
「B,あのさ」
といった感じの文章だったと思う。これを見て皆さんはどう感じましたか? 私はすぐに子供の頃夏休みに宿題出だされた日記を思い出しましたよ。これをなんの違和感もなく小説として書く、そして読めて面白いとしか思えない人は小説から離れたほうがいい。少しきついがそれぐらい幼稚な文章と気づいて欲しい。もし違和感があるなら月1でもいい、古本屋でも図書館でもいいからラノベ以外のしっかりと書籍化された作家の作品を読んで欲しい。
ある海外のベストセラー作家の言葉。『「~した。」などのしめくくりは使わないように書くのが小説家としての大成する要素』と言われています。言われるように素人でも「~した」「~だった。」ばかりで締めくくりされる文章は拙く感じます。
私も書けば多くなるだろうと思えてしまう。それは日記や感想文とは過去の出来事を書くのでどうしても過去完了の形になるので馴染み深いからだと思ってます。しかし小説とは今起こっている現状の物語として想像して読まれるので世界観を壊してしまうのですね。なので該当する人は考えましょう。
なので例文は能動的にそれぞれを繋げて書くようにしましょう。例えば
Bは、隣でAが目の前の料理を堪能している姿が可愛らしく思いながらも、踊っている人をソワソワしながらAを見て思う。「ダンス誘ってくれないかな……」
Aは食べながら踊りを見ていてふと尋ねる。
「B,あのさ」
これで少しは現在進行で物語がすすんでいるように感じないだろうか? 自分ではまだ納得いかないのですが、そこは許してほしい。例文なんで。
とにかく能動的に、今まさに起こっているように読者を自分の書いてる世界に引き込ませる事ができるかどうかというのが大切です。
次に違う作品ですが会話分がとても多い作品がある。それだけだとなんら問題はない。が、その合間合間に地の文がないのがある。これもまた同じ作家の言葉。会話の前後は必ず一文でもいいから「」彼は話す。などを書く。と述べてました。
台本というのは簡易な台詞だけが羅列されたものでそこに脚本家なりが演じて欲しい表現や言い方などをつけくわえていき劇などを完成させるのですが、そこの部分が小説の地の文です。先でも述べた会話文のあとの話もそれにあたります。
小説とは地の文があってなんぼなのです。ここの完成度が高いか低いかで受賞するか否か、ベストセラーになるか否か。が決まると言っても過言ではないと思う。
私もやはり引き込まれる作品はこの地の文が凄いと感じます。
すこし難しいかもしれませんがなろうの作家も読者も意識して見てください。心がけていれば必ず身につくと思います。繰り返すうちにいい作品になったりするはずですよ。