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一人称小説の地の文問題

ラノベの主人公の自分語りに代表されるような一人称小説の地の文の不自然さをずーっと感じていて、最近改めていろいろ考えるようになりました。

でも、難しいんですよね〜。

68件のコメント

  • ラノベ一人称の作品って心理描写が多過ぎる気がしますね。私もついそうしちゃうので自戒せねばと思うのですが(汗)。中々自分の納得出来る作品を書くのは難しいものです。日々反省ですね。
  • 俺の名前はkobuupapa。勿論仕事はしているが、あまり大声で人様に言えるようなものではない。名前の由来も、まあご想像にまかせるとしよう。男子たるもの、謎の一つや二つあった方が魅力的に見えるものなのだ。

    そして俺の隣には、一人の妻が座っている。
    妻だから一人が当たり前だろうって?
    それはそうだが、ここではこう描写すべきなのだ。なぜならこういう手法がここでは絶対的必要性を持って厳然と存在しているからだ。


    あー、やってみたけどダメだネタが続かない。自分をネタに自分語りなんてやるもんじゃないですね。私は何がやりたかったんだろう……。

    吾輩はkobuupapaである、名前はすでにあるが、小説においてできることは、あまりにも少ない……。
  •  いやいやすみません。新たにページを立ててもらったとあっては気合が入ってしまいますね。日々おかしいだろと思ってることを存分に語ってしまいますよ。

     にゃべ♪さんがおっしゃる心理描写が多いのは良いことだと思いますよ。そもそも一人称=私小説=心境小説としばし混同されるくらい(本当はまったくイコールじゃないですよ)一人称っていうのは人間の内面について語るためのものなのですから。古典には一人称は登場しません。自己の内面を語る小説は近代以降西洋からもたらされたものであるからです。小説というのは人間を表現するためのものなのです。これに対して人間を持ち込まないのに徹したのが近代詩なのですが、今となってはどうでもいいですね、そんなこと。

     で、大いにやり玉にあげたいのは、視点についてですね。
    「誰に向かって語り掛けてるんでしょう」
     ですよね~。これが当然になっちゃってるから気持ち悪い。持ち回り一人称で複数が主人公の作品でも、ずーっと語り口が同じでこんな感じで、気になって気になって仕方ないっていうのがありました。おまえらは誰に向かって語り掛けてるんだ。

     私がまだ十代の頃、マンガでこういう自己紹介風な番外編が流行ったのだけど、そこには必ず突っ込みが入ってたのね。欄外に天の声(作者の声)で「誰に向かって話してるんだい?」って。登場人物がいきなり読者に向かって語り掛けるのは不自然だって作者も分かってたし、読者もそう受け止めていた。
     それがおかしな文体なのだと自覚もなしに使われているならどうかと思います。

     小説においてどんな形式をとるかはいちばん大事なとこですね。油布さんが云ってた「自分の書きたい作品を最も適した手法で書くことが大切」ってことですよね。
     例えば『舞姫』は主人公の手記という形を取りつつ、エリスとの会話は「」を付けての直接話法、エリスを捨てさせた親友の相澤との会話は間接話法と表現を使い分けて、手記であるからこそ読み取りにくい主人公の本音を読み下げられるようになってます。読者に隠してる真実はどこにあるのかって何度でも掘り下げて読むことができる。

     こういった形式の長所や短所を考えもしないで簡単に一人称を用いる人多くないですか? 一人称が簡単だとでも? バカを言ったらいけない、一人称を使いこなすのは難しいですよ。キャラの個性を地の文で出さなきゃならないんですよ? この難しさがわかってないから「ラノベ形式」とでも言えるおかしな文体があたり前になっちゃってる。

     私がどうかと思ったのは、文学タグを付けてるような作者さんの作品にも違和感があることです。
     例えば子供が主人公の一人称なのに子どもはそんなことわからないだろうって描写が目立つとか、ハタチを少し過ぎた程度の男性サラリーマンの一人称なのに風景描写がめちゃくちゃ抒情的だとか。「あんた誰? 何者?」ですよ。実は作家だったりするんですか? みたいな。
     それで、もっともやもやしちゃうのは、そういうのを「文学的に素晴らしい!」って賞賛する人々がいることなのですよ。うん、文章は素晴らしいよ。私だって三人称の作品だったらそう思うだろうよ。でもこれ一人称なんだよ。おかしいよ。気になるんだYO!

     三人称でも、人物に添った視点の場合(背後霊的なやつですね)いやこんな高尚な単語がいきなり出てくるのおかしいでしょ? って思うことが多々ありますね。
     視点のブレや動詞の活用とか、私だってちゃんと守れてはいませんが、それでもあまりにもっていうのは気になって仕方ないです。
     みなさんは気にならないのですかねえ。
  •  kobuupapaさまは小説書けると思いますよ、はい。

     そうですか、胸元を開ける女子がお好みですか。
  • なぜこっちにも意地悪なレスを(>_<)
  •  一人称小説が簡単だと思われるわけ。それは徹底的な感情移入、自己同一化によって作家としての技量が必ずしも高くない人間が本物の傑作を書いてしまうことがあるからだと思っています。

     十七歳の少女が最高傑作を書いてしまう。文章的な意味でも。
     心と文章の一致がひとつの到達点であるなら、不思議なことではありません。
     しかしそれは技術の積み重ねではないので、心と作品、その微妙なバランスが崩れたら二度とは再現できません。

     もっともっと普通のレベルでも。感情移入して書けるじゃないかと思っている人は多いと思います。傑作とはいかなくても、本来の自分の技量以上のものが書ける場合はあると思います。

     三人称をきちんと書ける技量がない作者が、一人称なら形になるということもあるでしょう。ポイントは、作者の心と作品の一体化です。

     読むたびにひっかかる小説はもちろん読みにくい。しかし、心と一体化した小説は、その人間の精神が異常でない限り読みやすい。

     もちろん、そんな風に書いた小説には限界があります。自分の素の感情。自分の心の幅を超えた小説は書けない。それを超えた一人称小説を書くためには、自分と違う存在をリアルに構成し、自分と同じように語らせる力量が必要になる……これは、三人称以上に至難です。

     ある程度の技量のある作者が、一人称で、いいんじゃねぇ。的に書くのがもっとも嫌な感じがします。
  • にゃべ♪さま、こんばんはー。

    私もラノベって、描写がくどすぎるなーとは常々思っていました。ただ、なんとなーく思っていてただけで、あまり深くは考えていなかったので、ちょっと改めて考えてみないなと。

    で、奈月さまもおっしゃってましたけど、心理描写が多いこと自体は問題ではないと思います。だって、むちゃくちゃ饒舌に語っている小説でも、面白いものは面白い。

    例えば、今、たまたま手元に町田康さんの『夫婦茶碗』という小説があるのでぱらぱらと見てみると、とにかくもう、くどいほどの自分語りの文章がマシンガンのように放たれています。でもすっごく面白い。まさに、奈月さまの言う「人間の内面について語るための」一人称の文体です。

    つまり、問題は、その描写や表現方法が適切かどうか、ということなんですよね。

    そんなわけで、いろいろと皆さんの声を聞きながら、自分なりに考えを整理していけたらなーと思っています。
  • この話をするときに、実は私も奈月さまと同じく、まずは視点の話からきちんとするべきだろうなーと思ってました。

    きちんと一人称の表現ができていない人はすごく多いです。私はあまりここでたくさん読んでいませんけど、やっぱり気になります。

    そうなんです、一人称はぜんぜん簡単じゃありません! ありませんよ、皆さん! 簡単じゃないのに私は一人称ばっか書いてるんですけど、理由はまたいつか書きますけど、ほんと難しい。

    奈月さまも書かれているように、一人称の主体となる人物からかけ離れた思考や言動、判断の描写はできません。例えば、十代の男の子に、四十歳と四十八歳の女性の見分けなんて普通つかないよ、とか。

    それと、あたりまえなんですけど、主体以外の人物の内面は分かりません。ただ、これも実は意外と悩ましいです。例えば。

    ――「まあね」と言って、彼は苦笑いした。

    という一人称の地の文があったとします。これ、以前カクヨムでどなたかが指摘されていたんです。その笑いが「苦笑い」かどうかなんて、その本人じゃないと分からないことなのでは? と。いわゆる視点のブレっていうやつですね。

    なるほどー、と思いました。実は私も、一人称の地の文で、苦笑いっていう表現を使っていたのです。

    では、この場合どう書くべきか。「曖昧な笑い方をした」? 「片頬をゆがめた」? 「苦笑ともとれるような表情を浮かべた」?

    あーん。むずいよー。

    ことほど左様に、一人称は難しい。なのに、ラノベの一人称は、とにかくターゲットとなる読者層と同じくらいの年齢の主人公の一人語りだから、という点だけで採用されているとしか思えません。まさに「ラノベ形式」。

    私は気になりますYO!
  • で、ですね。

    私もkobuupapaさまは小説書けると思ってましたよ。でも、kobuupapaさまのことだから、そうそう簡単に「うん」とは言わないだろーなー、とタイミングを見計らってました。

    すっごく無責任なことをいいますけど(言ってもいいですよね、奈月さま)、kobuupapaさまは小説書くべきだと思います。

    で、いつかkobuupapaの小説のコメント欄に、妄想コメを書きます。ので、ぜひ。
  • 由布さまの、一人称における徹底的な自己同一化や感情移入、すごくよく分かります。

    といいますか、私自身、一人称で書くときに、まず、その主体になり切ろうとしますから。そうやって、入り込まないと、書けないです。

    だから、自分に近い存在を主人公に据えた一人称は、稀にすごい威力を発揮することがあります。まさに、「心と文章の一致がひとつの到達点」なら、瞬間的にその近くまで到達できる可能性は誰にでもあります。

    昔、北野武がこんなことを言ってました。「三十年以上生きていれば、誰だって一冊は優れた小説を書くことができる」。

    でも、由布さまがおっしゃるように、そこには限界があるんですよね。北野武はそのあとこう続けました。「ただし、二冊目以降を書ける人間はほとんどいない」。

    ところで、一人称と私小説と心境小説って、どう違うんですか? 奈月さま。私、心境小説って、初めて聞きました。

    あと、近代詩って、萩原朔太郎とか、室生犀星とか、中原中也ですよね。彼らは作品に人間を持ち込まなかったんですか?

    わき道にそれてしまってすみません。気になったので。

    あと、まだまだいっぱい言いたいことあるんですけど、とりあえずこのへんで~。
  •  えーと、心境小説はですね、ゴソゴソ(国語総覧を引っ張り出す)
     志賀直哉「城崎にて」が代表的作品。私小説の一種ってことだけど、まったく両極な感じのものです。私小説の破滅型に対して、調和型っていわれてます。
     私小説が社会への不満とかドロドロした内面を吐き散らすだけなのに対して、自分が目にした日常を肯定的に美しく描きあげているのが心境小説かなって私は思ってます。カクヨムで見かける純文学を標榜する作品は心境小説が多いかな。
     純文学の定義は今では曖昧になってしまってますが、文学史的には純文学=私小説・心境小説っていうのは間違いないです。作者さんが「読者に迎合されず純粋な創作動機から自分は文学を書いている」って主張するなら純文学ってことで良いと思います。
     あと私小説には三人称が用いられてる作品もあるので、一人称=私小説とは限らないってことです。

     実は私、志賀直哉の短いセンテンスをお手本にしてたりするのですが、文体診断ロゴーンでは一致率の高い文豪に高確率で太宰治が出て来ます。なんでだー。太宰キライなのに。

     近代詩についてはですね、ゴソゴソ(学生時代のノートを引っ張り出す。やばい、今となっては全然頭に入って来ねえ)
     えーと、ものすごーく端折って云っちゃいますと。主観的情緒を象徴によって表現しようとするフランス象徴詩の影響を受けたのが北原白秋。白秋門下の萩原朔太郎によって口語自由詩が完成される。処女詩集「月に吠える」は近代人の孤独意識を鋭く、または柔軟に表現した。同じ白秋門下の室生犀星の処女詩集「愛の詩集」も翌年の発刊ですね。叙情を美しく感覚的にうたいあげるのが特色と。犀星はプロレタリア詩の側面もあったわけですが。

     で、この後、関東大震災前後をきっかけとして詩壇は色々うまくいかなくなって、社会的状況も相まって「近代精神の挫折」なんてことになってしまう。ここで登場するのがモダニズム・超現実主義と呼ばれる『詩と詩論』という雑誌です。中心人物の春山行夫は萩原朔太郎の詩論と真っ向から激突するのですね。
     詩の感動は主観的な感情吐露にあるのではなく、むしろ感動は客観的なもので技術や方法によって表現されるものとして、主観あるいは感性といった人間的なものを作品から一切排除したのですね。

     結論から言うとこの運動は「あだ花だった」と言われるように失敗だったわけだけど、新しい時代の文学の方法論を提起した意義は大きく現代詩への影響は多大であったといわれてます。
     この後、『詩と詩論』に参加していた堀辰雄が『四季』を創刊。詩を再び伝統的な詩情に回帰させ新しく知性と感性の調和した世界を創造したとして、四季派の評価は高いです。ここには朔太郎・犀星・中原中也も参加していて今に続く現代詩はここから始まったといえます。

     うまくまとめられず長くなってしまったけれど(^-^;
     一度は人間を否定して自然回帰的な運動が起きるのはどんな分野にもあることなのですよね。日本では中途半端に終わってしまったモダニズムはヨーロッパでは近代社会の行き詰まりを打破する文明批評でもありました。
     だけど日本では徹底的な「自己」の不信や破壊っていうのが文化的に起こりえない。だから日本の近現代の文学はどこか脆弱なのかなーと思う次第であります。
  • なるほど、全くわからん(>_<)
    志にとらわれ蜂起したもののクーデターに失敗した226事件の若き士官たちのようだということしかわからん。いや違うか……。

    でも中原中也の『春の宵』は好きだったりします。胸元開けた女の子以外にも、好きなものはあるんだからねっ。


    冗談はともかく、私は大学でとある分野を勉強した「はず」なんですが、こんなに綺麗に一時期のムーブメントをまとめるのはできないなー。
    当然ノートなんか残ってないし、てかノート取ってなかったかも(>_<)

    奈月せんせい、文芸サークルの講師とかできるんじゃない? てか、やるべきじゃない?
  • あとねHan Luせんせい、私は言葉遊びはできますけれど創作は無理ですYO

    そもそもの自分のフィールドで諦めたという過去もありますが、私の頭はゼロから何かを生み出すことが、徹底的にできないのです。

    私が幼稚園の入園「試験」でまっさらの画用紙になんでも好きなものをかけと言われて書いたのが、中央に小さく描いた「日の丸」だったという事実を大人になって聞かされたときに、私は全てを諦めましたっけ(爆死。
  • Han Luせんせい。


    ――「まあね」と言って、彼は苦笑いした。

    ここだけ取り出されると難しいものもあるんだけど、どこかの誰かさんご指摘の「彼にしかわからない」というのにはちょっと疑問が湧くのですよ私は。

    そもそも「苦笑い」というのはやろうと思ってやるものじゃない。笑ってみたけどそうなってしまったもの。
    本人にとっては「様々な心情から笑って済まそうとしたけどうまく笑えなかった」から苦笑いになるんだけど、そういう不自然な表情は、多分正面で見ている人にも伝わる。
    それを本人以外が「苦笑い」と思ったって自然な話だし、日常の中でも「なんだよその苦笑いは」っていうシーンは普通にあるでしょう。
    そもそも私は、普通の笑顔か苦笑いかは見間違えない自信がある。

    で、例文がどんな状況下での出来事かわからないからそれは置いときますけど、ここにいる「私」は「彼」となんらかの会話をしていたことは間違いない。
    ということは、彼がここで「不自然な笑い」をしたことに、彼女は思い当たることがあるはず。もしくは笑いが「不自然」であったことに「疑問」をもったはず。

    そうするとねえ、「彼は苦笑いをした」と彼の目の前にいる「私」が思うのは全然不自然じゃない。


    ちょっとだけ例文に会話を足してみますね。

    ーー「色々あったみたいだけど上手く収まったんでしょう。よかったじゃない」
    私は急須にお湯を注ぎながら、多少疲れの残った顔でテーブルに着いた彼に話しかけた。
    「まあね」と言って、彼は苦笑いした。
    「あんまり考えすぎるのも体に毒よ」と、私は慰めにもならない言葉を言ってみた。

    ねえ、これ不自然かなあ。
    自然だと思うけど。
    あ、「私」が不自然なまでに多いって?
    ほっといてくれ……。


    ちょっと頑張って変えてみるとして……

    ーー「まあね」と言った彼は、私を安心させるためだろうか、無理やりのように笑顔を浮かべた。


    うんダメだ、私の限界だ……。
  • えっと分けますね長くなった。


    で、問題の例文が唐突に出てきたものとして、その場合にうるさ方も黙らせるには表現を変えないといけない。

    苦笑いに気づかないようなシチュエーションとしてこんなシーンで。

    ーー「おっはよー! 今日も元気かなー?」
    私は追い越しざまに満面の笑みで彼に声をかけた。
    「まあね」と言って、彼は苦笑いした。

    そんなにおかしくないかなあ。
    いやちょっと不自然かこれは。
    さて、うるさ方を黙らせるためには工夫せねばならない。これは戦いなのだから。


    ーー「まあね」と言って、彼は不自然な笑顔を浮かべた。

    ーー「まあね」と言って、彼は頬をゆがめた。

    ーー「まあね」と言って、彼は引きつった笑いを浮かべた。

    ーー「まあね」と言って、彼は頬をひくつかせた。

    ーー「まあね」と言って、彼は軽蔑するような薄ら笑いを浮かべた。

    ーー「まあね」と言いながら、彼は多分笑おうとしたんだと思う。でも私には彼が笑っているようには見えなかった。
    それはむしろ、怒っているのか泣くのを我慢しているのか、そんな表情に見えた。


    こういうの始めると止まるところがなくなりますね面白い。
    まあ、創作じゃなくて言葉遊びだから面白いと言えるんだけど。
  • あ、本題から外れて遊んでごめんなさい(>_<)
  •  一人称小説は主人公が感じた世界をそのまま書けばいい。

     明らかに見えない、感じられないものを安易に書くのはどうだろう。そういう指摘だったと思います。それはもちろん正しいと思います。

     しかし、小説の表現はそれだけではないと思います。
     @kobuupapaさんの言う通り、主人公がそう感じたなら現実と乖離していててもアリだと思います。極端な話、誤解でもいい。『彼女は悔悟の涙を流した』って主人公のその時の感覚で書いちゃってから、実は本当は嘘だったってこともあるかもしれない。

     時間軸を考えれば、整合性が破られることにはなりません。その時に百パーセントの真実だと思っていたことが、後で単なる勘違いだったことがわかる。神目線でないのですから、むしろこっちが自然です。

     @kobuupapaさん、センスいいですよ。

     思い込みガッツリの一人称小説を書いてください。その時は、胸元のホクロの描写を三百字以上、入れていただけると嬉しいです。

     
  • 奈月さま

    なるほど、私小説と心境小説の違い、よく分かりました。確かに「城崎にて」は自分のことを話してますけど、ネガティブな感じはないですね。というか、私小説って、やっぱりそういうマイナスな内容のものとカテゴライズされるんですね。うーん。

    実は、私も「城崎にて」、大好きなんです。あの、何も起こらない感じがすごく好きで。文体も好きです。短いセンテンスで、~た。~た。の連続で、一見すごく素っ気ないんですけど、何とも言えない良さがありますよね。

    話が思いっきり逸れて申し訳ないんですけど、実は、「城崎にて」で、ずーっと疑問だったことがあるんです。たまたま手元に新潮文庫の「城崎にて」があるんですけど、主人公が桑の木を見る場面がありますよね。桑の葉が一枚だけ、風もないのにヒラヒラと揺れてる。で、近くへ行って見上げていたら、風が吹いて、そしたら葉っぱは動かなくなった。で、「原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」とある。でも、それ以上何の説明もないまま、その場面は終わっちゃいます。

    これ、どういう意味なんでしょう。奈月さんはどう思いますか? 私はずーっと昔から考え続けているのですけど、まったく分かりません。以前ネットで調べたりしたんですけど、どこにも出てないんですよ。

    三人称の私小説もあるんですね。私は私小説ってあまり読んだことがなくて、最近だと車谷長吉さんくらいなんですけど、ちょっと苦手です。

    ロゴーン、私はなぜか松たか子ばっかり出るんですよ。松たか子の文章ってどんなのだ? ロゴーンで思い出しましたけど、『パンプキンとカカオ』のプロローグ、ロゴーンに入れてみてください!

    「人間を持ち込まないのに徹した近代詩」というのが、モダニズム・超現実主義と呼ばれる『詩と詩論』ということですね。

    >詩の感動は主観的な感情吐露にあるのではなく、むしろ感動は客観的なもので技術や方法によって表現されるものとして、主観あるいは感性といった人間的なものを作品から一切排除した

    私はこの感覚、ちょっと共感してしまいます。あまりに技術至上主義になるのはどうかと思いますが、主観的な感情を浴びせられても、と思ってしまいます。実際に私はこのあたりの作品を読んでいませんので、はっきりとしたことは言えませんけど。

    ただ、これはまたいずれ触れようと思っていたのですけど、人間の内面を語らない(主観的な感情吐露とは正反対の)一人称というのもあって、私はそれがある種理想の文体なんですけど、それを思い出しました。でも、その話はまた今度にします。

    徹底的な「自己」の不信や破壊ができないというのは、結局のところ自立した、まっとうな個人主義になれない、でも中途半端に西洋化してしまった日本人というものを象徴していますね。

    あまり批判ばかりしたくはないですけど、日本人って(もちろん自分も含めてですけど)、ほんと弱っちいですね。

    いろいろと教えていただいてありがとうございました。むっちゃ勉強になりました。授業料、短編一本でいいですかぁ?
  • @kobuupapaさま、ぜーったいそんなこと言ってはぐらかすと思ってましたよ。でも、油布さまもおっしゃているとおり、センスいいと思います。

    さて。

    そっかー。そうですよね。私も、うーん、そうなのかなーと、今一つ納得できない部分はあったんですけど。

    @kobuupapaさまの例文、説得力ありました。特に最初の例文、まったく違和感ないですね。「私」も別に多くないと思います。

    面白いですよね。表現って、面白い。言葉遊びから始まる創作だってあっていいと思いますよ。ねぇ、油布さま。

    そっか。
    >一人称小説は主人公が感じた世界をそのまま書けばいい。
    んですね。

    確かに、一人称の主体が感じたことしか書けないのなら、主体が誤解していたとしても、そのまま書いていいわけですよね。

    なんかちょっと、ほっとしました。
  • Han Luせんせい、新作ありがとうございました。
    成る程、僕の言い訳だったから彼女の名前も知っていて当然。
    作家さんというのはなんとまあ綿密に仕込んでいることかと、舌を巻くしかありません。
    あ、ついでに尻尾も巻いちゃいます。

    ちょっと寒の戻りの今夜だけど季節的には春の宵。
    こんな夜にふさわしい物語を、ありがとうございましたm(_ _)m
  • 新作を読んで気分の良くなった私は、頭の中で一日中ぐるぐる回っていた「苦笑い」のシーンを、もう一つ思いついた。
    これもまた、あちこちに転がっているもので、何の目新しさもないのだが、他人の表情を「苦笑い」と表現する自然な例になるんじゃないかと思う。


    ーー「っ……」
    娘に言われて思わず言葉に詰まった。まさか娘に説教されるとは思ってもいなかった。
    娘が大人になったのか、それとも俺が歳をとったということなのか。

    「おい……」
    声をかけようとした俺を無視して娘はさっさと二階に上がって行った。
    思わずため息をついた俺に、キッチンのカウンターから一部始終を覗いていた妻が声をかけてきた。
    「あなた苦笑いしてたわよ。本当は嬉しかったんでしょう、あの子にやり込められたのが」
    「まあな……」
    すべてお見通しの妻の言葉に、俺はもう一度苦笑いするしかなかった。



    私のキャラが変わってるのは、ちょっと気分良く酔ってるからなんだよっ。
    何をやっているのかと苦笑いしながら、この話はそろそろ忘れることにします。
  • @kobuupapaさま、いえいえー、楽しんでいただけてよかったですー。ちょっと変わった人称の使い方をしているので、ネタとしてもいいかなーと。

    ちなみに、この仕掛けは私が考えたのではなく(残念ながら)、ある小説家さんの手法をぱくっています。もちろん、オリジナルの切れ味の方が2,800倍くらい鋭いです。

    一人称で相手に語らせるのも手法のひとつですよね。基本、私も会話のなかでいろいろと語らせちゃうほうなので、この例文はすごくしっくりきます。

    とにかく私は会話文を書くのは大好きなんですけど、地の文を書くのがすごく苦手で、たまに苦痛なんですよ。かといって「まおゆう」みたいなのもなー(嫌いじゃないですけど)という感じです。
  • Han Luせんせい。

    二千八百倍の切れ味を持つオリジナルというものにも興味が湧きますが、それはそれで消化不良を起こしそうです。


    ところで、例文(?)の中で奥さんが旦那さんの表情を「苦笑い」と評したのも、くだんのお方からしてみたら不自然なんでしょうかね。
    「苦笑いかどうかなんて旦那にしかわからないのに、この奥さんは旦那のことを分かった気になってるだけの悲しい女だ」とかなっちゃうんだろうか。


    『まおゆう』はねえ、即興の投稿SSという背景と、あの独特な台詞回しが受け入れられないと「なんだかなー」でしょう。

    ちなみに私はまとめサイトで最後まで読んだんだけど、編集さんの手が入る前の「生」原稿の持つ不思議なパワーを感じましたっけ。
    ああいうのは、綺麗に直せば直すほど、たぶんつまらなくなる。
  • @kobuupapaさま

    私がせんせいと呼ばれるまでには、今の二千八百倍くらい精進しないといけないと思いますよー。

    奥さんのセリフですけど、奥さんは別に小説家でも何でもないですから、本来であればまったく問題ないですよね。

    「何よー、苦笑いしちゃってー」
    「いや、俺、もともとこういう顔なんス」
    なんてこともあるでしょうし。

    『まおゆう』に限らず、ラノベ形式の独特のセリフ回しはやっぱりちょっと、ううう、となってしまいますよ。

    あー。調整入る前のものが持ってる魅力ってありますよね。音楽でも、デモの方がむっちゃいいじゃん! ていうのがありますから。
  •  序盤の三人称に見せかけた一人称、上手でしたねえ。引っ込み思案とかって、みさきちゃんの内面的特徴を掴んでいたのも作家という職業と気になる相手ゆえの観察眼ってことで納得でした。(でもこれも〈僕〉がそう受け止めてただけで、ほんとのみさきちゃんは実は違う、とか考えるとミステリー……)
     人称の工夫って、やりやすくもあり、やっぱりやりにくいのですよねえ。私は「三十年前……」で《私》っていう主語を出さずに頑張ったのですね。そうすることで読者に自分と重ね合わせて読んでもらいたかったからです。でも難しくて《自分は》って人称を使わざるをえませんでした。叙述は難しいです。

    『城の崎にて』
     これ高校の現国でやったはずだけどまるで覚えがない、なんて思いながら読み返したら、「淋しい気持ちだった」とか記憶にある部分が多々ありました。福永武彦も『草の花』で〈淋しい〉を使ってて、この影響で私もやたらと寂しいではなく淋しいって字を使ってた時期がありました。なんか恥ずかしいな(照)
     桑の葉の描写。唐突な感じがしますよね。蜂、鼠、いもりと動物の生死の描写と並べているからには死生観を切り取っているのだと考えるのが当然ですよね。
     動物ではない葉っぱが外的な作用で動いたり止まったりしている、生も死も外的なものに左右されるって云いたいのかな? って思えますよね。この後に放った石で図らずもいもりを殺してしまうのですから。
     それにしても静寂の中で一枚の葉っぱだけがヒラヒラしてる、風が吹いて止まるっていうのが???ですね。物理学的に解説できる動きなのかなーと思い、私もネットで調べてみたら、いちばん初めに「桑の葉=黄泉のイメージ」と答えている掲示板をみつけてしまって。アホかってがっかりしました。ここまで写実的な描写を積み重ねている中にどうしていきなりそんなオカルトチックな表現が入るんだよ。おかしいだろ。(あわわ、また口が悪く) 私も民俗学的な読み解き方は好きですよ。好きだけどそういう作品じゃないでしょうに、馬鹿としかいいようがない。(あわわ、個人の解釈は自由なのですよ。そう、自由)
     で、次に見つけたこちらの回答がドンピシャでした。
     https://oshiete.goo.ne.jp/qa/876855.html
     なるほどです。何も不思議なことなどない。志賀直哉は見たままを描写したのだってことがよくわかる部分ですね。すごいなあ。
  • ありがとうございます。そうなんですよ、おっしゃる通り、三人称の部分は、実は一人称の<僕>が描写している部分なので、実際のみさきちゃんは違うという可能性もあります。

    といいますか、前半は<僕>が電車の中で見かけた出来事と、ホームでみさきちゃん本人から聞いた話だけで書かれているんですよね。なので、<僕>の想像や創作の部分が必ず入っているはずです。そして、これもおっしゃる通り、「作家という職業と気になる相手ゆえの観察」なのです。だから、主人公の<僕>は物書きでなければならないのです。

    あー、私も全く同じことしてます。実は、私も『エレ』で、《私》という主語を出さない文章に書き替えようとしたんです。でも、途中で挫折しました。そうなんですよ、絶対《自分は》っていうのを出さないといけない部分が出てくるんですよ。『エレ』は最初一人称で書いて、三人称に直して、また一人称に戻しています(暇か!)。

    『城の崎にて』

    サイト、見ました。なるほどー。納得です。長年の謎がようやく解けましたよー。ありがとうございます。

    やっぱり、ほかの動物たちの描写につながっているんですね。見たままを描写してただけだったんですね。でもそのシンプルさがすごい。すごい境地ですよね。

    それにしても、アホな人、いますよね。とにかく深い意味を無理やりにでも持たせようとする人。そんなのとは正反対の世界のことなのに。(はい、解釈は自由です。はい)
  • 短篇よみました!
    構成やら伏線の仕掛けにびっくりしました。
    なんとなくアイラ・レヴィンの死の接吻を思い出しました。

    一人称の話面白いですね。
    皆様のコメントもすごく勉強されていて、タメになります。
    私もたいてい一人称で書くので、気付かされることが多いです。
    主人公が感じ取れないはずの表現とか、知りえない情報が出たりとか、そもそも主人公のキャラクターからそれた表現が出てきたり、と。そのあたりは一人称独特の難しさですよね。
    私もスタートは三人称でしたが、一人称に移行しました。
    書きやすさもあるのでしょうが、この難しさをクリアする楽しみがあるのもまた確かですね(笑)
  • 深い意味を持たせるのが好きな私が通りますよっと。

    先生方のやり取りを拝見して面白かったのが(ごめん)、自作に対してはどんな解釈もオーケーのスタンスなのに、自分が読者となって読んだ、しかも好きな作品に対してはそうはいかないってところ。
    うん、非常に興味深い。
    分かるんどけどねっ。
  • (油布さんがいつまで胸元のほくろを引っ張るのか面白くなってきました)

     ロゴーン。すごーい、オールAだ。浅田次郎かー。
     私のだと「女はそれを我慢できない」のおまけでオールAが出ました。こんなので良いのか?!ってちょっとびっくり。問題は〈文章の硬さ〉だよね。私の三人称作品だと硬すぎ。一人称でも「おくることば」はやわらかすぎだったのよ。まあ、こんなのお遊び程度だよね、ほんと。

    『詩と詩論』が頑張ってくれた意義っていうのは大きいのですよ。コンクリート・ポエトリィなんて前衛的なものが詩壇で認められたのもその土壌が既にあったからだと思えるのです。

     春山行夫の詩、私は好きです。『植物の断面』ていう詩集にあるタイトルのない白い少女の詩とか。意味がないわけじゃない、カメラのレンズを通して見たものだってちゃんとわかる。情感だって伝わってくる。客観的な描写から読者が何を受け取るかですよね。
     だけどぶっちゃけ、読者に理解されなかったから「あだ花」となったわけで。やっぱり読者の問題になってしまうのです。
     文字文化の衰退は読者の質の低下が問題なのか、書き手の怠慢が原因なのか。どっちもなんでしょうけど。

    >でも中途半端に西洋化してしまった日本人というものを象徴していますね。

     まったくもっておっしゃる通りです。日本文学が陰惨なイメージなのはここに理由があると思います。西洋にはキリストという絶対者の存在があるから生活の中に自己救済の方法があった。だから思い切り自己を疑うことができた。
     だけど「私」というものから離れられない日本人は内にこもってどろどろするしかない。書くという行為のエゴと羞恥心を浄化できない。西洋の新思想を受け入れきれずに懐古主義に走ってしまった。
     なんかこれって、今の世の中にもあてはまる気がします。和を尊ぶ文化は世界に誇れるものだけど、もうちょっと強くならなきゃですよね。
  •  そうそう。すっかり話題に乗り遅れてしまいましたが「苦笑い」問題についてはお二人が云われてる通りだと思います。
     それこそ主観と客観の描写の違いが分かってないからそんな突っ込みをするのだと思います。

     難癖つけられないようにするためには、断言を避ければいいのだろうな、とは思います。

     ――彼は笑った。苦笑いのようだった。

     常に「ようだった」「みたいだ」って付けないとなりませんねえ。やっぱり気にしないのがいちばんです。

     大前提ではありますが、主人公の主観=作者の主観にさえならなければ良いのですよね。作中において自分を出さないことが命題であり難しいところ。
  • 関川さま、いらっしゃいませ~。なんかすっごく恐れ多いたとえを出されておりますが……。

    一人称のお話、私もすごく勉強になっています。分かっているつもりでいても、あいまいなまま書いていたり。ちょっと立ち止まって考えてみるのもいいかな、と。

    そうなんですよ、一人称は難しいんですけど、それをクリアしたときはすごく楽しいですよね。

    また覗いてみてください!
  • 奈月せんせいったら私がずっと避けていた言葉を言ってしまった。

    「難癖」ですねこれはまさに。

  •  あ……言っちゃ駄目でしたか?(^-^; 難癖。

     ついでに言いにくいことをもうひとつ。油布さんの「放課後パーティー」が文章力の評価を低く付けられてて、それ見たときイライラしました。文章上手い人がわざわざ読みやすく書いてるのに分からないのかな? だったら批評なんかするんじゃないって。

     あああ、人様の近況ノートですみません(土下座)
  • @kobuupapaさま、はい、おっしゃる通りです。

    やっぱり好きなものって……好きなんですよ(なんじゃそりゃ)。分かってくださいまし。

    奈月さま、私もほくろの件、すごく気になって見ています。

    ロゴーン、プロの作家を入れてもなかなかAになりませんものね。それほど複雑なプログラムではないでしょうし。それにしても、浅田次郎って……。あ、私は「女はそれを我慢できない」のおまけ、大好きですからっ。

    コンクリート・ポエトリーって知りませんでしたけど……うわ、なんですかこれは、むちゃくちゃかっこいい! ってアホみたいな発言ですみません。でも私こういうのすごく好きなんですよ。抒情的なものも好きなくせに、一方でどんどん意味が解体されていってしまうような表現方法にすごく惹かれてしまいます。絵でも音楽でも、ミニマムなものや即興、インスタレーションなんかもすごく好きなのです。ああまた話が逸れていきそう……。

    春山行夫さんの詩、読みたい。と思ったら、詩集はすごく昔の本なんですね。ゆっくり探してみます。

    読者の問題……ですよね。私は、すごいものを受け止めるには、受け止める側にもそれだけの体力が必要だと思うんです。そうじゃないと、重いものをドーンと渡されても受け止められない。だから、足腰を鍛えなきゃなぁと思っています。でも、多くの人は、とにかくお手軽に、すごいものをくれーって言っているように見えます。そんなのないよ。無理だよ。

    和の文化の良さはありますし、ちゃんと残していかなければならないと思いますけど、それとは別に、日本人はもっと広く外側に向けて、いろんなモノに触れていかなければならないんじゃないかなぁ、と漠然と思っています。内に向かいすぎなのでは、と。それがひいては強くなっていくことにつながる気がするのですけど。

    >主人公の主観=作者の主観にさえならなければ良い
    「苦笑い問題」はこれに尽きる気がします。確かに難しいですけど、それがまた楽しいです。

    奈月さまのいらいら、とてもよく分かります。ノート主が許します。存分にやっちゃってくださいませ(いやいや、だめですよね。はい。どおどお)。
  • Han Luせんせいったら、突っ込んじゃうんだからねっ。

    ここは「どうどう」でしょっ(>_<)
  • ツッコまれちゃいました。えへへ。
  •  奈月様、ありがとうございます。

     

     
  •  一人称小説の話が多いので、三人称小説に関しても考察を。

     僕は大昔に小説を書き始めた頃、三人称小説こそが普通のあるべき姿だと思っていました。
     ドラマだとか映画だとか。そういうストーリーを小説として書いた場合、一人称視点だけでは書ききれないことがほとんどです。主人公のいないカットを書けないことは、とんでもないマイナスだと思ったのです。

     だから『アダルトウルフガイ』を読むまで、小説家が一人称視点を選択する意味がわかりませんでした。主人公と一体化した臨場感が、そのような欠点を補って余りあるものを書ける。というか、その効果は絶大だ。十代の頃の僕には大きな衝撃でした。

     三人称小説の利点は、すべてのカットを描ききれることです。主人公以外の人物の視点が必要条件の小説なら、そのスタイルで書くべきです。
     欠点は感情移入する作品に仕上げるのが難しいことです。しかし、これは絶望的な欠点ではありません。恐ろしく困難ですが、そのような作品を書くことは可能です。

     一人称小説の利点は、読者の感情移入が容易なことです。自分の妄想を実現させることを主題とするテンプレ異世界物やラノベでは、特にそれが重要視されていますから。非常に多くの作品が採用しています。

     その中で、技術的にも問題のある作品が非常に多いということは、みんさんのおっしゃる通りだと思います。しかしそれは作者の力量の問題であって、人称の問題ではありません。力量のない作者が一人称小説を書いているというだけです。(たぶん、そのような作者は、まともな三人称小説も書けないと思います)

     一人称小説の欠点は、使えるカットが限定されることです。また、主人公の感情や知識によって限定されるので、それ以外のものを表現することが著しく困難であるということがあげられます。

     結局両方とも著しい欠点と利点があって、欠点を克服することは不可能ではないとしても恐ろしく困難。それが実情であると思います。

     だから題材によって、その利点を最大限に生かす手法を選ぶ。手法を選択した場合、欠点を克服するように最大限の努力をする。それが必要であると個人的には思っています。
     

     
  • Han Lu さま

     現代ドラマランキング3位おめでとうございます!(どんどんぱふぱふ)
     スタートダッシュ良かったからいけると思いました。4位から上の壁が厚いからこれは快挙。すごーい。(私の「カメリア」は5位止まりです)

     星なんかもう気にしなーい、なんて思ってはいても、ランキングに乗るのは気分が良いものです。そこはまあ、人としてしょーもないことですね(^-^;

     あとでまた語りに来まーす。ではでは。
  • 奈月さま

    え。そうなんですか? ほえー。

    ランキング、あんまり見ないので、教えていただきありがとうございます!

    そうですね、嬉しいものですね。

    これも皆さんのおかげです。ありがとうございます!
  • 17秒の応援コメみてると、なぜかみんな、みさきちゃんに寄りかかって居眠りしてたのは「おっさん」だと思ってる。
    不思議だなあ、なぜなんだろう。
    (実は私もおっさんをイメージしてました)

    土曜日の午後2時の電車の中なんだから、どかっと足を開いて座ってるDQNなお兄さんの可能性だって高いし、ちょっと太ったオタク系のお兄さんかもしれない。ひょっとしたら昨夜からの徹夜の残業がようやく終わってボロボロになって帰宅の途についてる若いエンジニアかもしれない。

    うーん、何故なんだぜ……。
  •  ここでようやく、一人称の地の文の問題。

     Han Luさんはたぶん、一人称小説なのに地の文で心情描写をがっつりやらないのはどうなのかと心配されているのではないかと思います。

     必要な仕掛けは、きちんとしている。自分には一人称を選択した理由もある。しかし、ラノベなんかはとにかく一人称。何も考えないで一人称。しかもいい加減。それってどうなのって……。(違ったらごめんなさい)

     会話文だけでは、一人称小説も三人称小説も大差ありません。

     もちろん地の文章が問題です。

     一人称小説は感情移入がたやすいという利点を前に書きましたが、もう一つ、重要な要素があります。Han Luさんはそれを選択したのかとも思います。

     視点だけでなく、価値観がひとつに安定すること。例えば主人公が見守るキャラクターが必然的に変化し、成長していくこと。それをブレない視線で身近に、温かい視線で描けるのが一人称小説の利点でもあります。

     そのような選択で書いたのであれば、必ずしも主人公の過剰な感情表現は必要とされません。独白バリバリというのは、一人称章小説の特性を生かした一つの典型的なやり方です。しかし違う特性を生かすのであれば、違うアプローチがあってもいいと思います。

     Han Luさんには確かな技術があるので、自分の選択した方法で小説を書ききる力があります。

     的外れだったら、ゴメンなさいね……。

     
     
  • 油布さま

    非常に鋭いご意見、ありがとうございます。私が一人称を選ぶ理由、いくつかあります。感覚的に「しっくりくる」から。自分の好きな作家たちの多くが一人称を使っているから。

    そして、一番大きな理由は、主人公の目を通して世界を見る、主人公を通して世界と接する、そういう小説が好きだからです。

    >視点だけでなく、価値観がひとつに安定すること。例えば主人公が見守るキャラクターが必然的に変化し、成長していくこと。それをブレない視線で身近に、温かい視線で描ける

    なるほど。と思いました。たぶん私がやりたい一人称はそういうことなんだと思います。

    私にとって究極的に理想の文体は、一人称でかつ、まったく自らのことを語らない、主人公は完全に単なる映像装置になってしまったかのような文体です。読み手は主人公の目を通して、登場人物や出来事や情景を知るのですが、主人公はそれらに対する自らの気持ちや意見を一切語らない。そんな文章にあこがれています。

    でも、必ずしもこれは、主人公のことが語られないということにはならないと思っています。「ブレない視線で身近に、温かい視線」で主人公が何かを描いていれば、それはすなわち、どのような主人公であるかということを描写することにほかならない、と思うからです。

    奈月さんが投稿された『猫と桜』、読まれましたよね。あの文章、ほとんど書き手の感情は書かれておらず、描写のみに徹底しています。あの風景を見てどう感じたかは一切書かれていません。まさに写生ですよね。私という人称代名詞すら使われていません。

    それでも、書き手の選んだ言葉や、風景の切り取り方、描写の仕方で、この書き手のことがおぼろげではあるけれど、伝わってきます。私はこれを長編で徹底的にやりたいのです。

    そんなわけで、独白バリバリじゃない、違ったアプローチを今後模索していくことになると思います。難しそうですけど。

    またいろいろとご意見お聞かせください。書くのって、ほんと、難しいけど、楽しいですよね。

    ではでは~。

  • @kobuupapaさま、なぜ居眠り男がおっさんなのか。これ、あんまり作者が語らないほうがいいですよね、たぶん。

    確かに、私、『男』としか書いてないんですよね。もうちょっと描写しろよ、と思わなくもないですね。もちろん、私の中には映像として完全にイメージがあるんですけど。まあそれは書かないでおきます。

    えっ、手抜きじゃないですよ。まさかそんな。こうやってみなさんがいろいろと想像できる余地があるって、素晴らしいですよね。

    でもまあ、ようは、おっさんとはそういうイメージだということなんでしょうね。もちろん、そうじゃない方もいっぱいいいらっしゃるということは重々承知しておりますよー。
  • 素敵なキャラが確立されたようで、私はとても嬉しいのです。
    口車に乗った私が小清水君をあまり冒涜してなくてよかった、本当に良かった……。

    先生はひょっとして、業界関係の方でしょうかなどと思ってしまうことが多々あります。
    投稿される時間があまりにも深夜だったりとか、デモの方がずっと良いとか言う一言とか……。
  • 『口車』の方は、先生から「これがお前の限界だ(by クルツ少佐)」と言っていただければと思いながらアップしました。

    あれ本当は、続き書いてーとばかりにここに書こうと思ってたやつなんだけど、そこで終わらせとけばよかった。人間、調子に乗るとロクな結果にならないと言ういい見本。
    亡くなった祖母が「白タクと口車にだけは乗るんじゃないよ」と言っていたのを、今更ですが思い出しましたよ。
  • うがー。小清水君、すっごく不安です。正直、メサちゃんの続きよりも不安です。うー。でも、やります。このボリュームだと13編くらいで一冊分なので、それくらいは書きます(あわわ、ほんとかー?)。

    私の正体はナイショです。あ、でも業界関係者じゃないですよ。普通に昼間会社に通っています。投稿時間遅いのは、たまに仕事が修羅場なときですね。年度末はねみーです。

    クルツさん、かっこいいですよね。

    んー。私はそろそろ、書かれてもいいんじゃないかなーと。そう囁いていますよ、私のゴーストが。
  • ゴーストの囁きに乗るってのも俺の性分じゃねえ……。

    だから私は読むのです、そして応援コメを書くのです。
    失うものを手にしたことのない少佐について行く「パーツ」の彼らのように。

    意味不明だ。


  • うう。なんかかっちょいいです。
  • あ、魔法の杖が連作一作目に改題されてる。
    いつのまにか(>_<)

    レビュー直さなきゃだぜ。
  • Han Luせんせい

    相変わらずアレなレビューで申し訳ないです。これが私の限界だ。

    そういえば小清水くんは作中で名乗ってないですね。
    まあそのうち名刺を渡すシーンとか出てくるかもだし、「僕の名前は小清水くん、沿線ライターをやりながら小説家を目指している」とか語り出すかもしれないし。


    ところで石川さんの「さん」の話をちょっと覗き見しちゃったんですけどね。あの「石川さん」と言う書き方が、村上春樹っぽいと感じた一番の理由でしたっけ。
  • 名前というのは不思議なもので、もう私にとって「僕」は「小清水くん」でなければ絶対にダメになってる。
    「大清水くん」でもダメだし「岩清水くん」でもダメだし「竜王院くん」なんて論外だし。

    失礼しました……。
  • いえいえ。名前はものすごく重要です。といいますか、いつも悩みます。書く上で本文以外で悩ましいのは、タイトルと名前ですね。

    皆さんどうやって名前考えているのかなー。


    竜王院くん??
  • えっと、ホントごめんなさい、
    もうね、応援コメに書けなかった妄想を書き連ねただけになってて何というか冒涜ここに極まれりというか……。

    まあ私はいつも、いろんな物語を読むと別の結末を妄想する癖があるんですよ。
    ゼロからは何も作れないくせにねー……。
  • あとですね、私がHan Luせんせいのお話がとても好きなのは、私が「現実なんてこんなもんだろう」と思ってしまうのと真逆の、素敵な結末を用意してくださっているからなのです。
    これが本当に、読み終わった時に嬉しくなる理由……。
  • @kobuupapaさま

    それはたぶん私がこれまで読んだ小説が、まさに現実を超えた素敵な結末を用意してもらっていたからで、私もそういう小説が書きたいとずっと思っていたからなのですね、たぶん。

    どういうものを読んできたかも、いつかどこかで書こうかなと思っています。
  • こんにちは。

    会話主体の回、二人の噛み合ってない感じよく出てましたよ。リアルな会話でもそういうことって多いからそれを出そうとしてるのかなーと思って最初読んでましたけど、次の回を読んで、あーなるほどそれかって思いました。
    特に旦那さんの「今の話から〜」は、確かにそうなんだけど、編集長さんが聞いて欲しかったであろう事とは多分決定的に違う。
    こういう噛み合わなさは突き詰めていくとどうにもならなくなるんでしょうね。
    離婚に至らなかった場合は、やがて会話のほとんどない夫婦になるのかも……。

    春樹っぽいは、実はすごく感じてたんだけど、書いたら失礼かなと思って黙ってました(苦笑。
  • 普段の会話でも、結構噛み合ってない事ってありますよね。いや、そういうことじゃなくて、みたいな。

    決定的に違う噛み合わなさ。どう説明してもたぶんわかってもらえないだろうな、ということもあります。

    こういうことを表現するのって無茶苦茶難しい。でも、それが小説の面白さだと思っています。そういうことを表現できちゃうのが。もちろん地の文で「彼女たちは何かが決定的に噛み合わなくなっていた」と書けばすんじゃうんですけどね。

    春樹っぽい、まったく失礼じゃないです! いやむしろおこがましいでしょう。例えばこれが……いえ、やめておきます(苦笑)。

    いつもありがとうございます。ではでは~。
  • 力作でもなんでもなく、読後に頭に浮かんだことを書いてたらこうなった。
    どうしてこうなった(>_<) って感じでもありますが。


    Han Luせんせいの、特にこのシリーズを読むと、一つのきっかけがもしちょっと違う方向に動いたらとか、作中のキャラがちょっと違ったことを考えたらとか、別の可能性を想像、妄想して楽しんでしまう自分がいます。

    酔っ払ったせいで小清水くんにうっかり昔の自分を知られてしまった編集長さんは、翌朝頭痛に悩みながらベッドから出てくるときに「しまった……」とか思ってるんじゃないかなーとか、色々聞いてしまった小清水くんは、今度編集部に行ったときにどんな顔をして会えばいいのか悩んでないかなーとか、妄想ネタは尽きません。
    笑えばいいと思うよ、ではなかなか照れ隠しもできないのが現実だし(笑。


    結婚生活を共に頑張ってたはずの旦那様の方はちょっとかわいそうな気もするんだけど、きっとあなたは「クリエイティブ」な思考を持った相手と身近に接し続けるには、思考の根幹が現実的に過ぎるんだろうな。だからこの二人は絶対に噛み合わない。
    まあ私が実生活の中でも感じることです、ときどき同じことを言いそうになる。
    想像的思考の中で生きている人と話をするときには、事象から得られる結論を急ぐと行き着く先はため息か喧嘩……。


    ふふふ、と言っていただけてよかった。
    いい加減にしとかないと怒られちゃうのはわかってるんですが、好きな作家さんの二次創作をやる人たちの気持ちが、何となくわかったような今日この頃です。
  •  お邪魔します。奈月です。

     公式連載で「角川文庫キャラクター小説大賞」の過去受賞作品の冒頭部分が読めるのだけど。ホラー以外の三作品だけざっと目を通して、軽くカルチャーショックです。
     どれも一人称で、ラノベよりも地の文の描写が濃密になった程度。これでいいのか?! って涙目になりましたよ、ワタシ。なんかショックだー。
  • 奈月さま、こんばんは。

    私も、公式連載で「角川文庫キャラクター小説大賞」の過去受賞作品読みました。ホラー以外の三作品。冒頭部分だけ、ですけど、その冒頭の最後までたどりつけませんでした……。挫折です。

    ショックなお気持ち、よくわかります。

    キャラクター小説、キャラクター文芸っていうんですね、こういうの。知りませんでした。ただし、別にとんでもなく個性的なキャラが出てくる、というわけでもないのかー。要は『いわゆるラノベテンプレ要素』をとっぱらったライトノベルですよね、これ。かつ、連作短編形式。なるほど、アニメ化、ドラマ化にはもってこいですね。お金の匂いがぷんぷんしますねー(ビジネスですから、それは別にいいのです)。

    受賞作を読んで思ったのは、ラノベテンプレって、ある意味すごいなーということです。テンプレがないと、こんなにも作者の力量がダイレクトに作品に出てくるのかーと。テンプレだと、あー、またか、まあしょうがないよね、と真剣に読む気は起きませんけど、そうじゃないということは、一応こちらもそれなりの姿勢で読もうとしますから。

    いつまでも異世界チートは続かないでしょうから、いろいろと手を打っておこうとしているのですよね。大変です。

    第三回はプロの小説家の方が選考委員をされているので、もしかしたらちょっと変わっているかもしれませんね。わかんないですけど。

    そうそう、話は変わりますけど、前回グダグダだった「スニーカー文庫《俺のラノベ》コンテスト」の第二回が開催されるそうなのですが、応募作の条件を見て、大笑いしました。

    「新人賞を最終選考まで勝ち抜いた作品」

    これ……まあ、いいや(まごうかたなき苦笑)。ほんっっっっっっと、バッカじゃないの?

    キャラクター小説大賞、締め切りまでもう少しありますし、出してみよっかなーと思っています。ではでは~。
  • 「キャラクター小説」少し大人風味を加味したライトノベルですよねえ。これが角川文庫って一般向けラインナップで選ばれるものかと衝撃だったのですよ。きっと一般向け文芸の最下層であるのでしょうけど。

     地の文で描写が多いのは文芸っぽいけど一人称である以上やっぱり私は違和感覚えましたよ。誰に説明してるんだろう? って(苦笑) 回顧録風とか回想とかって分からないことには突っ込んでしまうなあ。お世辞にも上手い文章とは思わなかったし。あれでいいのかあ(遠い目……)

     俺のラノベ2はね。うん。開いた口が塞がらなかったよ。恥ずかしげもなくよくもあんな募集の仕方ができるよねえ。即戦力になる長編が欲しいのね、はいはいって感じ。(ってことはカクヨムコンで選考残ってるやつじゃダメってことなんですかねえ)
     怠慢だし傲慢だよ。しかもアホ丸出し。やっぱアホなのかあ。泣けてくるわ、ほんと。

     私も「女は~」をキャラクター小説大賞の方に出そうかと思い始めました。今準備してる恋愛もの長編がエブリスタの方の締め切りに間に合いそうなら「女は~」はこっちの方が良いかもって。
     何にしろ書かねばですね。よーし、書き書きしよう。

     それではまた~。
  • こんばんはー。
    手土産ないけど失礼しますよ。

    異世界チートって続かないんでしょうか。
    なんか私は、一つの確立された「ジャンル」のように感じてます最近は。
    チートというとアレだけど、ヒーローものと考えたら、世に出回ってる名作と言われるものにおんなじようなのいっぱいある。


    舞台が中世ヨーロッパなのか江戸時代の日本なのか近未来の荒廃した世界なのか、なぜか主人公が転生あるいは転移した世界なのかという違いはあるけれど、すげー主人公が活躍する物語は、名作と言われるものも含めて星の数ほどありますもの。


    テンプレ小説だろうが何だろうが、売れて出版できるんだったらバンバンやればいい。
    そうしなきゃ版元は生き残れないし、版元が死んだら作品が世に出る機会も減る。
    いま名作といわれるものも、そうやって世に出て生き残ってきたもの。版元にせっつかれて不本意ながらも書きに書いて結果名作として残ってるものが多い。
    大衆小説、娯楽小説って、そういうものでしょう多分。
    コナンドイルだって近松門左衛門だってそのパターンですから。


    テンプレ化された異世界チートラノベの、しかも多分生き残ることも無いようなものに目くじら立ててもしょうがない気がします。
    あれはあれで一分野。

    違う分野の作品を書いている方たちが「苦笑い」をするのはやむを得ないけど、多分異世界チートはジャンルとして確立されてると思います……。


    問題かなと思うのは、書き手の方が「発想」は素晴らしいのに、展開力も素晴らしいのに、それを小説として仕上げる基本的な文章力が。それをそのまま出してしまう出版社の……。



    やめます、終わらなくなる。
  • やっぱりちょっとだけ続けます。

    相当乱暴な言い方してますごめんなさい。皆様の葛藤は痛いほどわかるし、自分に何もできないもどかしさもあります。

    昔ちょっとだけHan Luせんせいにお話ししたことがあるんですけどね、覚えてらっしゃるかな。
    会社からの批判をかわしつつ「これは」と思った作家さんを世に出そうとしたいち編集者の話。

    そういうひとは、今だってきっとあちこちにいるハズだと、私は信じてます。そういうのは、編集者にとって叶えてみたい夢なんですよ。
    そういう思いがなければ、やってられない仕事だし、もちろんやる資格もない。


    うん、話がどんどん逸れる。
    酔ってるなー(>_<)
  • @kobuupapaさま、いらっしゃいませ~。手土産はまた今度で。

    そのお話はもちろん、覚えています。
    >そういう人
    というのは、「これは」と思った作家さんを世に出そうとする編集者さんのことですよね。私は編集者のことは分かりませんけど、いてほしいですし、いると信じたいですね。

    で、ひとつまえのコメントへのお返事を。

    異世界チートは、ながーい目で見たら、私は続かないと思います。どれくらい先なのかは分かりませんけど、私はいずれは消え去っていくだろうと思っています。その時期がどんどん先へ伸びている気はしますけど……。

    異世界チートを「ジャンル」と呼んでいいのか、私は微妙なところですけど、広い意味ではヒーローもののひとつですよね。明らかに。大きな力を持ったヒーローが戦うお話はそれこそ神話の時代から星の数ほどあるわけですから、異世界チートだってそのバリエーションの一つ、そう考えると、何を今さら……という見方も理解できます。

    例えば、アメリカでは二束三文のパルプ小説が大量に出回ったり、SFにしたってアメコミにしたって、とにかく大衆向けの内容の薄い安価で手に取りやすい商品が大量に流通する現象は特に珍しいものではないですよね。(このあたり、実は『さよなら、ライトノベル』の第二章で触れる予定だったんですよーっ、ふがーっ)。

    もし私が出版社の人間だったら、異世界ものに関する企画をバンバン上げなさい、って指示すると思います。特に若い社員たちに対して。今、こいつで儲けなくてどうすんのよ、って思いますよ。私なら思います。でもそれは商売のお話。

    もう少し商売マターで続けます。
    >小説として仕上げる基本的な文章力が。それをそのまま出してしまう出版社の……
    これも、私、別に文章が多少(最近は多少どころではないみたいですけど)アレでも、それで読者が満足していれば商売としては正しいと思います。文章を直すのは作者だとしても、具体的な指示を出すのは編集者でしょう。だとするとそれは人件費に跳ね返ってきます。なるべくコストをかけず、手離れのいい商品を速いサイクルで回したいです。

    最近の若いライトノベル作家は、書き直すこともできず、実際は編集者がかなり手を入れているという噂(真偽のほどは知りません)もあるくらいですから。
    http://news.livedoor.com/article/detail/14302269/

    しょせんライトノベルは娯楽小説ですもん。作家の文章力の低下が招く若い人たちの国語力、読解力、考察力の低下については、もっと別のジャンルの小説なり文芸作品が担うべき問題です。

    ……以上、商売マター終わりです。

    出版社側もここまではっきり言ってくれたら気持ちいいのに。

    なんて冗談はさておき。

    十年前に、桜庭一樹さんが直木賞を取りましたよね。彼女以外でも、ライトノベル周辺(厳密に言うとライトノベルとは少し違います)から出てきた冲方丁さんや有川浩さんや西尾維新さん(……はちょっと微妙)も一般文芸のジャンルで広く活躍されています。

    私、桜庭さんのライトノベル『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は読んでいましたし、直木賞を取った『私の男』も読みました。で、思ったんですよね。ライトノベルは有象無象ですけど、これからもここからいろんな人がどんどん才覚を現していくんだろうなーって。正直、わくわくしました。

    こういうことって、他のジャンルにもありますよね。それこそ、二束三文のパルプフィクションや探偵小説の中から、ミッキー・スピレーンやレイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドが現れて、今でもちゃんと読み継がれている。前に教えていただいたコナン・ドイルもそうですよね。

    あと、『おくりびと』でアカデミー賞の外国語映画賞を受賞した滝田洋二郎さんはかつてポルノ映画『痴漢電車シリーズ』を撮っていましたし、森田芳光さんも相米信二さんも根岸吉太郎さんも、ええとほかにもいますけど、彼らも若い頃はポルノ映画を撮っていました(男女のからみのシーンさえ入れれば自由に映画を撮れたからですね)。

    私がライトノベルにこれまで惹かれてきた理由のひとつは、たぶん、こういうことがあるからなんだと思います。内容なんて二の次で、とにかく広く大衆に向けて安価に大量に生産された中から、突如としてメインストリームに躍り出てくるものがあって、それを目の当たりにすることはものすごくエキサイティングなのです。

    ただ、最近のライトノベルやここのような投稿サイトを見ていると、どうもこれまでの傾向とは違っている気がしてなりません。コナン・ドイルみたいに、今は仕方なく二流の探偵小説みたいなものを書いているけど、いつか自分が本当に書きたい小説を書いて、大ベストセラー作家になってやる! みたいな気骨のある人が出てくるようにはとうてい思えません。桜庭さんが直木賞と取ってから十年たちますけど、彼女に続くような人がライトノベルのレーベルから出てきているでしょうか? 私は知りません。

    まして、異世界チートを書いている人たちのなかから、これからライトノベルにとどまらない作品を生み出すような動きが出てくるとは到底思えないです。そんな人たちが集まっている『ジャンル』が果たしてずっと続いていくでしょうか。

    それともうひとつ。どうしても気になってしまうことが。異世界チートって、『ファンタジー』というジャンルでもあるんですよね。奈月さまの近況ノートでもちらっと触れているんですけど、私はどうしても『ファンタジー』をこんなふうに扱ってしまう作風に抵抗感を持ってしまうのです。ただ単に『ヒーローもの』だけであるのなら、これまでもそんな二束三文の安い商品はたくさんあったよね、で済むんですけど、『ファンタジー』である限り、そう簡単にはいかないんです、私の中では。

    私は大学で心理学を専攻していたから、余計に思ってしまうことなのかもしれないですけど。『ファンタジー』には――本来の『ファンタジー』には、特別な力が備わっています。『ファンタジー』を『物語』に置き換えても構いません。このあたりは、説明し出すとそれこそ小説一冊分くらいになってしまいます。でも、村上春樹大せんせいもきっと同意してくれるはず。村上春樹大せんせいの小説(『ノルウェイの森』のようなリアリズム小説は除く)も、要はこことは違う、向こうの世界(たいてい邪悪なものと通じている)へ行って、戻ってくる構造が多いですから。このあたりは私なんかが語るより、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』をぜひ読んでいただきたいです。

    そんなわけで、異世界チート(及び異世界転生、異世界転移のテンプレもの)については、言いたいことが山ほどあるのですけど、それはまた自分の作品の中で言います。

    うひゃー。むっちゃ長くなっちゃったー。次回、手土産期待してますのでー。

    ではでは~。
  • こんばんは。

    えと、私は『異世界チート』のことをファンタジーの中の「一つのジャンル」ではなくて『異世界チート』という「一つのジャンル」だと思ってるんですよね。
    『ファンタジー』に似てるけど『ファンタジー』じゃない。
    『異世界チート』という一つのジャンル。

    うーん、うまく伝えられない……。


    出版社がHan Lu先生が「気持ちいい」と思えるようなほどにハッキリ言わないのは、それを言ったら流石に作家の卵さんが来なくなっちゃうってのと、こんなことでも続けていればいつかはきっと現れるハズ、という思いがあるんでしょうきっと。
    いや、あってほしいな、かな……。
  • これはあまりにも本題とは関係ないんですけど、春の嵐の宵に酔ったせいでちょっとだけ付き合ってください。
    手土産は今度きっと持ってきますから。


    『ノルウェイの森』って、「あっち側」に行ってた主人公が、いま現実に生きてて肌をかわしてる女の子に、「こっちに戻ってきて私を見て」って言われる物語で(スゲー乱暴な言い方)、基本構造は『羊をめぐる冒険』から『ダンス・ダンス・ダンス』とおんなじだよなーって常々思ってて、まあほかのも大体そんなような構造になってて、行ったきり戻ってこないのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』くらい?

    私は村上春樹先生の作品は実は結構読んでて好きなんですよ、実は隠れファンです。スパゲティを茹でる時に「泥棒かささぎ」序曲をかけたくなるくらいのファンです。
    でもですね、私はあの方の作品からはエッセイも含めてなぜかリアリティを感じないんですよね。
    こんな体験してこんなセリフを吐いてみたい、と思わせる不思議な世界とでも言ったらいいのかなぁ。いや、こんな面倒な体験はしたくない、と言う世界かもしれないか。

    村上春樹ワールドってのはそう言う世界のことをいうんでしょうか。リアルに見せかけた虚構とでも言うのか?
    それともあの独特の文体のせいで、読んでるうちに自分が哲学者になったような錯覚に陥ることをいうんでしょうか、それとも……。

    村上春樹先生の魅力って、そこそこ好きなくせに自分で自分に説明できないんですよね。


    「僕はどうしてこれだけの時間をかけてこの本を読んだんだろう。読んでる時は少なくともそれが必要なことだと思ったし、多分そうすることが正解だったんだろう。目も痛くなったし頭も痛くなったが、そんなことは後悔していない。でも今の僕にはひとつだけ疑問が……」
    みたいな読後感。
    こう言うの思うのって、村上春樹ファンとは言えないのかな???
  • @kobuupapaさま

    まずは『異世界チート』のほうから。

    なるほど、『ファンタジー』とか『SF』『ミステリ』『ホラー』とかと同列で『異世界チート』というジャンルになっている、というかなりつつあるということなんですね。

    確かに、ここまで上位のカテゴリなら、ファンタジーとはそもそも別物、ということになりますよね。

    ただ、上に挙げたジャンルと同一のレイヤーで『異世界チート』という言葉が並んでいるのはまだ違和感がありますよね。新しいジャンルが確立するまでにはある程度の成熟期間が必要ですよね。はたしてそこまで生き残れるかどうか……。

    私は本当のところ、異世界ものって、もしかしたら生き残っていくかもという気もしています。違った名称になるかもしれませんけどね。どうかなー。
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