ルリ子さんの目は青い。作中では生体電算機としての能力を発揮しているときのみ青く発光する。
何故青いのか、それに理由はあるのだろうか。
私はあると思う。
何故なら、シン・仮面ライダーの世界観は仏教をモチーフとしたものが多いからだ。
例えば、第一号の装着しているベルトタイフーンは、風を取り込む際、蓮の形状に発光しているのが見て取れる。蓮と言えば仏教における仏の象徴として描かれていることが多い。実際多くの仏具に蓮華の意匠が施されていることから、蓮が仏教における重要な植物であったことは間違いない。
また、シン・仮面ライダーでは「プラーナ」と呼ばれる概念がストーリーに置いて非常に重要な役割を担っているのだが、「プラーナ」と言うのはサンスクリットでの「息吹」を意味する言葉であり、またサンスクリットは仏教の経典などに用いられる、仏教において重要な言語である。
これらのことからシン・仮面ライダーは仏教と非常に密接な関係であることはうかがい知れるが、「仏教」「青い目」と聞いてピンとくるものがあった。
実は、仏教における非常に重要な人物「仏陀」あるいは「釈迦牟尼如来」は、「真青眼相(しんしょうげんそう)」という青い瞳を持っているのである。
仏となった者は人間を超越した特徴を兼ね備えると言われており、その内の一つが「真青眼相」なのである。所謂仏の三十二相である。
名の通り三十二の特徴があり、その他にも「手足指マン網相」とか「足下安平立相」とかいろいろあるが今は割愛する。
つまり、仏になった者の目は青く変色するのである。
そしてルリ子さんの目も青く変色する。
「でも、ルリ子さんとブッダって何の関連性もないよね?」
実はそうでもない。
それが、「パリハライズ」と「施無畏印」の関連である。
「パリハライズ」とは言わずもがな、作中でルリ子さんが何度も実行する洗脳解除の名称であるが、これは掌を正面に向けることで発動する。
そして、施無畏印というのは釈迦牟尼如来が結んでいる印の一つである。これも同様に掌を正面に向けている。施無畏印は向けられた人の畏れを取り除く印相らしい。
この二つの性質、結構似ていると思わないだろうか。私は思う。
畏れを取り払う印と、魂を解き放つ印。
仏教とは個人の幸福を追求する、というある種の思想であり、仏とは幸福を追求した果ての、輪廻転生からの脱却、つまり解脱した姿なのである。(解脱の解釈には諸説ある)菩薩、観音や天、修行者が人を救済し続けているのは、やがては自身の幸福を極限まで追求した果てに仏になるための修行の一環なのである。(ちなみにこれまでの輪廻転生の中で解脱したのは釈迦牟尼如来ただ一人)
そして、ルリ子さんも作中でオーグメントを倒すという社会貢献を行っているその活動の最中に、個人の幸福を見出した。
ルリ子さんと如来、酸いも甘いも経験した二人の行きついた先は、形は違えど、その本質は変わらないのである。もしかしたら、プラーナの配列の固定化とは解脱に似たものなのかもしれない。
というわけで、ルリ子さんと仏さまとは意外にも共通点は多く、だからこそ仏さまの瞳が青いのと同様、ルリ子さんの瞳も青いのだ。 と思う。もしかしたらただ単純に製作者の趣味だという線も否めない。
それはさておき。
ここからは余談だが、如来がよく組んでいる印には「施無畏印」の他に「与願印」と呼ばれる印もよく結んでいる。
施無畏印とはちがい、掌を上に向けるのである。
実はこの与願印に似たものを、「シン・エヴァンゲリオン」で見た。
「仲良くなるためのおまじない」だ。
劇中で非常に印象的なシーンで、このおまじないは多用されている。
掌を差し出して、握手を求める行動のことを、「仲良くなるためのおまじない」と劇中では呼称していた。
しかし、これらの動作には若干の違和感もある。
というのも、掌を上に向けて手を差し出すのだ。
普通、握手を求める際、人は掌を横に向ける。
だが、シン・エヴァンゲリオンではほとんどの「人に手を差し伸べるシーン」に置いてこの「手を上に向ける」動作が多用されているのが分かる。
つまり、これは明らかに制作側によって意図された動作だということだ。
「おまじない」
「SDATの返却」
「マリの、シンジへの手助け」
「救済」
全てのシーンで、掌は上に向けられている。
そして、与願印もまた、手のひらを上に向けて差しだす。
ちなみに与願印に込められた意味は「人々の願いを聞き入れ、叶える」と言うものだ。要するに施無畏印同様「救済」ための印なのである。
もし、シン・エヴァンゲリオンが与願印を意図して、これらの動作をキャラクターに行わせていたとするならば、シン・エヴァンゲリオンは「他者の救済」の物語であるということだ。
そして、「シン・仮面ライダー」の物語には他者の救済に加え「自己の救済」の側面がある。もちろん、シン・エヴァンゲリオンにもその側面ある。
両者に共通するのは、どちらも人々の救済の物語だということだ。
これらを踏まえ、もう一度映画を見直してみると、また違った視点、考え、感じ方を得られるかもしれない。
これらの映画が複数回の視聴に耐え得るほど強靭に作り込まれていることはこれらの映画の一ファンである私が保証しよう。