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「死後の遺書」を公開しました

ドストエフスキーを好む友人を捏造した、というのは事実です。昔、そういう友人をフィクションとして創造し、彼が存在するように書いた小説があります。一応某所で公にしたので、この世の中で数人は読んだことがあるかもしれません。

この作品の目的は、「死ぬことで何が変わるのか(何も変わらないのか)」を明確にすることにあります。実際のところ、誰かが死んだところで世界は知らん顔で今までのように在ります。近親者もいずれはもとの通りに戻ることでしょう。あるいは死んだ張本人はどうか。自死した人間も、死んだところで何も変わらないというのを、ある種のシュールレアリスム的に描こうと試みています。

この中で、遺書が出てくるので、ついでに遺書の書き方を調べてみようとしたところ、Googleから「ヘルプが利用可能」とのメッセージとともにこころの健康相談の電話番号が表示されました。全く困ったものです。死とは憧憬であって、苦悩とか絶望とかはその憧憬を助長するに過ぎないのに。

淡風の死生観は、相当一般的なものとは変わっているのではないかと自覚しています。そもそもまっとうな人間であれば、「死とは憧憬である」と口にはしません。しかしそれ自体はやはり真実のようにも思えるのです。現実世界でちまちま麻薬のように楽しみを味わうよりも、一度にたくさんの幸福を味わう方法が死なのかもしれない。マシュマロ実験と同じです。死を後にすればするほど、たくさんの幸福を味わえるかもしれない。目先の幸福にとらわれる人間こそ死を欲するのかもしれない。さぁ……
とはいえ、あらゆる幸福を感じている際には必ず、脳裏に死がちらつくものです。それ死への懸念とか不安とかではなく、死の幸福と比較するためのものです。死の幸福は未だに体験したことがない。今感じている幸福と死はどのくらい違うものなのか想像するのが何より幸福なのかもしれない。

という話や関連する話をすると、六割くらいの人はあまりに恐れて二度と私に近寄りませんし、残りの4割は心が疲れていると諭してきます。もしかしたらそうなのかもしれません。けれども、甘んじられるほどには幸福です。得られる最大幸福の一割程度しか幸福ではない気もしますが、九割は一つの叶いもしない出来事に強く依存しているので(それが死ではないことは強調しておきます)、残念ながら得られません。

とにもかくにも公開しました。そんなわけでそれを語るための近況ノートです。めちゃくちゃへんてこな死生観がそこにあるんじゃないかな。よかったら。

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