はじめましての方に向けて書いています。はじめまして。鹿路(ろくろ)けりまと申します。
こんな辺鄙な場所までわざわざ訪ねに来るなんて、あなたはきっとよほどの数寄者なのですね。
ここにはなにもありませんよ。あなたの期待に応えられるようなものはなにも。
私は必ずあなたを裏切ります。あるいはすでに裏切っているかもしれませんが。
まあそれはいいでしょう。いまからする説明は、私の手がけた作品集の一覧のなかからまずどれを選ぼうかなと思案している未来の読者様に対して一定の指針を与えうるものになります。
なにかの参考になるかもしれないので、最初に私の好きな作家や詩人の名前をいくつか挙げておきます。三島由紀夫、寺山修司、澁澤龍彦、伊藤計劃、アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレール、ジャン・ジロドゥ、フランツ・カフカ、オスカー・ワイルド、ジョージ・オーウェル……。
まあこの時点で結構ふるいにかけられますよね。わかってます。ご察しの通り、私は生きている作家にはほとんど興味がありません。私の胸にひびいてくるのは肉体的あるいは精神的に死んだ人間のことばだけです。いちいち氏とかつけるの面倒くさいですしね。数少ない例外は野崎まど氏と、あとはそうですね、舞城王太郎氏ぐらいでしょうか。私の作品はだいたいこのへんの影響を受けていると考えてください。あ、ラノベや漫画はまた別ですよ。
それでですね。今日の執筆時点で私のページには『ぼくの妹は息をしている(仮)』『frozen chameleon in the love』『マリファナのマリー』『walpurgis』の四作品があると思いますが(「鹿路けりまの補遺」はゴミ箱なので除外します)、結論から言えば、おすすめ順は、
『マリファナのマリー』→『walpurgis』→『ぼくの妹は息をしている(仮)』→『frozen chameleon in the love』
となります。
理由としては第一に、最初に挙げた二作品は文字数が少ないという点があります。これらは短編です。その気になれば半日かからず読了することができます。まずはこれらを読んで私の作品の個性を判断していただきたい。
『マリファナのマリー』はかなり一般受けを意識して書きました。話の筋も単純でわかりやすく、それは評価が物語っていると思います。私はライトノベルとして出したのですが、某社編集者いわく、90年代風のJ文学として読まれる傾向があるようです。そんな作品は読んだことがないのですごく不可解なのですが。
ただこの作品だけではすこし物足りないなと感じられる読者もいるかもしれません。なにかが欠けている、求めていたのはこれじゃない、そもそもおまえの文章は下手だ。すばらしい。あなたには資質があります。きわめて限られた資質ではありますが、そんな読者にすすめたいのが『walpurgis』です。じつはこの作品は、『frozen chameleon in the love』を執筆する過程のなかで自然に剥落した部分であり、その意味で余剰物以外のなにものでもないのですが、にもかかわらず、私の創作のエッセンスが凝縮された独立短編となりました。『マリファナのマリー』を写真の陽画とするならば、『walpurgis』は陰画です。この時点で1000人中999人が脱落していると言っても過言ではありませんが、なおついてきてくれる覚悟があるならば、これら二作を読み終えるころには、長篇『ぼくの妹は息をしている(仮)』を受け入れる土台がととのっていると思います。
『ぼくの妹は息をしている(仮)』は挑戦的な作品です。それはある意味においてライトノベルの極北に位置するでしょう。読者様の評では「ラノベ的に換骨奪胎されたファウスト」とありますが、そのテーマにはいま別箇で取りかかっています。むしろ私は、カフカの『城』とテレビアニメ「灰羽連盟」から着想を得ました。とはいえ、「ある文学作品をラノベ的に換骨奪胎する」というのは私の主要なテーマのひとつであるので、それを見抜いた読者様は慧眼だと思います。ちなみにですが、『マリファナのマリー』はジロドゥの『オンディーヌ』ならびにサルトルの『嘔吐』を強く意識して書きました。
最後にですが、『frozen chameleon in the love』ははっきりいっておすすめできません。これについては、三島由紀夫が『仮面の告白』を書くにあたって川端康成への書簡のなかでうちあけた心境とまったく同じところであるので、かわりに語ってもらいましょう。
――はじめての自伝小説を書きたく、ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で、自己解剖をいたしまして、自分が信じたと信じ、又読者の目にも私が信じてゐるとみえた美神を絞殺して、なほその上に美神がよみがへるかどうかを試めしたいと存じます。ずいぶん放埓な分析で、この作品を読んだあと、私の小説をもう読まぬといふ読者もあらはれようかと存じ、相当な決心でとりかゝる所存でございますが、この作品を「美しい」と言つてくれる人があつたら、その人こそ私の最も深い理解者であらうと思はれます。