【あなたとワルツを】
「そう、サイカは今もよくやっているの」
「ええ。腕がいいと評判だそうで。立派な大物を寄越して下さいました」
サーイルカークから届けられた黒角鹿の肉をメタリカの暮らす屋敷へ持参し、クロノアは真面目たらしく頷いた。城を離れた際の様子を思えば、無事に身を立てているのは喜ばしい。
メタリカがティーポットの蓋を開け、蒸らした茶葉のいい香りがした。
魔王であった頃がもう随分と昔に思える。今のメタリカは下町で暮らしていた頃のように、気安い態度で肩肘張らずに生きいるのだ。とても穏やかな日々を。
「肉質は悪くなっていないはずですが、早めに召し上がって頂くか、保存加工するか料理人とご相談下され」
王位を退いてもメタリカの人気や影響力は依然高いまま。その口に入れる物だからと、保証を兼ねてクロノア自ら運搬を担ったのだが。
もう身分など気にしていないメタリカは、未だに臣下の如く接する用心深いクロノアに肩を竦めてしまう。先々代の王妃になる前から見知った仲なのにと。
「相変わらず堅苦しいままね。王でも臣下でもなくなったのに」
「年老いるとどうにも容易くは変われぬものです」
メタリカは手ずから注いだティーカップをクロノアに供した。主人が直接もてなすべき客人として扱われるのは面映い。相手がメタリカなら尚更に。
「言う程の年齢でもないでしょうに、馬鹿ね。いつまでそんなふりしているのかしら」
「……参りましたな」
揶揄うメタリカに苦笑を返すしかない。クロノアは何も偽っているつもりはないのだが。ただそういう性分なのだ、の意を込めて目礼する。
王政こそ廃れたが一代限りの終生爵位を得たメタリカとクロスリードは、この国における最後の名誉貴族。むしろ身分の差はより顕著に思えた。
クロノアは既にクロカジールに家を託し引退した身、それこそただの一般人。世間ではちょっと大物扱いされるだけで。
シャノが聞いたなら、ちょっととは……と訝るだろうが。
「まあいいわ、そういう人よ。昔からね」
「恐れ入ります」
「問題は私一人であんなに食べ切れないことの方。干したり瓶詰にしたのじゃなく、シンプルに焼いたのが好きなの。クロノア、しばらくここに通いなさい。鹿肉を食べ終えるまで連帯責任よ」
「それは少々困りましたな。周囲の耳目にどのように入ることやら」
まさか元王族と結託して悪巧みしている、などと吹聴されては敵わない。そう思いを馳せたクロノアに、メタリカは思い切り笑い弾けた。
「心配せずとも、あなたの耳に下衆の勘繰りを吹き込む命知らずはいないのじゃないかしら。それとも、私と噂されるのはご不満?」
「は……? いえ、全くそのようなつもりは」
示唆された噂の方向性を汲み取り、クロノアは慌てて手を振った。しかしその様子さえおかしく映るのか、機嫌よさそうにメタリカは笑み深める。
「なんなら連泊なさい、どこまで噂が轟くか見ものだわ!」
「陛下……」
思わずそう呼んでしまい口を噤む。すっかり掌で転がされているなと。冷静を欠いた自覚を持ち、寸の間目を閉じ思考を断つ。
瞼を開く数秒で切り替え、クロノアはやれやれと息を吐いた。
「お戯れが過ぎますな。もしそのような醜聞が出回ろうものなら、息子達にどれだけ叱られるか」
「醜聞なのね」
「はて?」
「あなたには醜聞なのかしらって。残念なだけよ」
くすりと笑うメタリカの本意を推し量れず、クロノアは返事に窮した。
きっと深追いすれば議論は続くだろう。その結論を負うのはメタリカでなく、クロノア自身なだけで。それは不本意だろうかと考え……否と言える。
「新しい茶葉にするわ」
気にした風もなくティーポットを手に席を立つメタリカ。鈍色の髪が揺れる後姿を目で追って、クロノアはしばし思案する。
己の内にあるものはきっと、心燃やすような感情ではなくて。どのような距離であれ、相手の声が、表情が察せられるような。そんな関係性の中に根付く慕わしさだろう。
──理解している、この感情も恐らくは……そうと呼べるのだと。
「さ、どうぞ」
新たに注いだティーカップを置き、じっと視線を向けて来るクロノアに気付く。
メタリカが首を傾げれば、静かに手を取られた。まるでダンスに誘われるように。
「……私の自惚れでなくばよいのですが」
穏やかな声だ。情熱的とは言い難い、実直で思慮深い声音。だからこそクロノアらしい。メタリカの眼差しも先程までと違う。もっと、切なさが滲むもの。
言葉なく視線を交えるのは、互いの思いを読み取ろうとするからか。上手く言葉に出来ないからか。いや、もう言葉は必要ないから……そうだったら。
やがて体温が移り、触れ合う指先が同じ温度になる。それがとても狂おしい。
「私の思い違いじゃないわよね?」
「そうならば光栄ですな」
「なら、後で文句を言わないでちょうだい」
メタリカは気の急くままに口付けた。肌が溶けて一つにでもなったみたいに、同じ温度で抱き合えている。離れることなく繋がれた手が忙しない。
結ばれたのは歯痒い距離の心か身体か。さもなくばそう……糸に似た見えぬ何かだ。
【終】