• 現代ファンタジー

ナマクラ小説家の鍛え方 ※名乗るだけなら自由らしいです。

 二週間くらいでしょうか? カクヨムでの活動を停止していました。6月末の賞へ投稿する作品がある人間ならば、その完成度を高めるために粉骨砕身するべきだったのかも知れませんが、ぼくはあえてそれをしませんでした。
 理由は、誤解を恐れない表現を用いるならば、無駄な努力をすることに抵抗を覚えたからです。ただし、ネガティブから来る言葉ではありません。しんどい理由ではあると思いますが……。


 6月中旬に、大々的に自室の掃除を行ないました。ベッドの下が銀世界! とでも言わんばかりに埃が積もり積もっている光景は阿鼻叫喚もので、これを機に自分をリセットしたいという、その意思表示も兼ねて、断捨離を決行したわけです。
 その作業の中で、私はある重要なアイテムを眠らせていることに気付きました。

 ――『荒木飛呂彦の漫画術』。

 ご存じ、ジョジョの奇妙な冒険の作者様である荒木先生の本を、あろうことか本棚に置いたは良いが、全然活用していないことに気付きました。ジョジョのルーツを知りたいがために購入した書籍だったのですが、あれだけの作品が出来上がる行程がどのようなものなのか、それを知ることには大きな意味がある――そう思って、まっさらな気持ちでその本を読みました。
 鈍器で頭をカチ割られたような気がしました。なんだか、どこでも言っているような気がする感想ですが、繰り返したくなるくらい、自分の中の見積もりというか、考え方の甘さを痛感した瞬間でした。

 気付いた今が、鍛え直すチャンス! そう思い、ぼくは自分に関係のありそうなページを、何度も目を通しました。今のままの技術――物の考え方では、既存の作品を今以上の物に仕上げたとしても、それが誰かの心に残るようなものに生まれ変わることは無い――そう思い至った時、ぼくの中の優先順位はガラリと変わっていました。そこからは、誤解を覚悟で言うと、ぼくはカクヨムではなく、既存のプロが作った小説を読み直すことを優先していました。時代錯誤であることは覚悟していますが、一世を風靡した作品には、必ず何かがあるはず。それが技術なのか発想なのかはわからなかったけど、とにかく目に見えない相手と向かい合えるような文章を考えられるようになる……そのために、自分なりの鍛え方を続けてきました(勉強という言い方は嫌いなのでしません)。
 ここまでは、技術の話。


 もうひとつ、思い至ったことがありました。それは思考の凝り固まりを自覚したことです。イラストを使った謎解きを行う古い絵本を、読む機会がありました。その答え合わせをした際、何度か「なんじゃそりゃあ!?」と思うような結果になることがありました。でも、何度か確認する内に、それが自分の中の常識に当てはめたが故の、「常識の押し付け」になっていることに気が付きました。年を重ねたが故の、自信と相手の考える意図の摩擦――と言うべきなのでしょうか? そういう考えに至った時、ぼくの中の受け皿は、いつの間にかぐにゃぐにゃになっていやしないだろうか? という不安に駆られました。こども向けだからこそ、絵本のもつ魅力というものの奥深さに興味が出て、実に二十数年ぶりに、同じタイプの絵本を購入しました。それを読んで楽しんでいたのも、時間を使った理由です。

 
 新しい作品を作ることに、臆病になっているような気がしないでもないんですが、基盤を整えなければ城が崩れるように、磨き上げたかもしれない己のセンスを上手く表現できるようになる……自分の場合はまずそこだと思いました。
 思っていても出来てないかも知れないし、勘違いして逆効果になる可能性もあるのかも知れませんが、焦らないでやっていこうと思います。

 いつも以上にイノシシ野郎になっている今日この頃ですが、これからも気が向いた時に、ぼくのページを覗いてみてくだされば幸いです。

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