夕暮れがスーパーの広い駐車場を茜色に染め上げていた。両手に提げた買い物袋の重みが、今日の献立の充実ぶりを物語っている。私は自分の愛車、少し年季の入ったコンパクトカーの前に立つと、満足のため息をつきながらドアを開けた。
「さて、帰って美味しいご飯にしなくちゃ」
鼻歌まじりにキーを差し込み、ひねる。
……カチカチ。
あれ?
もう一度。
……カチッ。
金属が虚しく鳴るだけで、エンジンが目覚める気配は一向にない。計器類のランプも、まるで蛍の光みたいに弱々しく点滅しているだけ。
「うそ…バッテリー上がり?」
最悪だ。JAFを呼ぶ?でも、こんな時間からじゃ一体何時に家に着けるんだろう。途方に暮れてハンドルに突っ伏していると、車の窓がコンコン、と鳴った。
「どうかしました?」
見ると、作業着姿の人の良さそうなおじさんが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「あ、すみません。どうもバッテリーが上がっちゃったみたいで…」
「ああ、なんだそんなことかい。ちょっと待ってな」
そう言うと、おじさんは自分の軽トラックから何やらゴソゴソと取り出してきた。それは赤と黒のケーブルがついた、巨大な洗濯バサミのようなものだった。
「お、困ってるのかい?」
「手伝うよ」
いつの間にか、私たちの周りには3、4人の男性たちが集まっていた。みんな親切で、なんだか心強い。
「ジャンプしてやるよ」と、最初のおじさんがボンネットを開け、例のデカい洗濯バサミを手際よく繋いでいく。
「よし、これでいいだろ!お嬢さん、エンジンかけてみな!」
「はい!」
期待を込めて、再びキーをひねる。
キュルルル…ブスン。
さっきよりは元気な音がしたけれど、エンジンはかからない。
「あれ?」
「おかしいな、ちゃんと繋がってるよな?」
「プラスとマイナスは…合ってるよな?」
さっきまでの頼もしい雰囲気が一転、男たちは顔を見合わせ、困惑し始めている。優しい人たちに囲まれているはずなのに、私の心細さは逆に増していくようだった。
その時だった。
「フッ…素人が束になっても、時間の無駄というものだ」
やけに澄んだ声が、男たちの輪を割って響いた。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。妙に糊のきいた白いシャツに、なぜかサングラスをかけている。夕暮れなのに。
「俺なら一発だ」
男は自信満々にそう言い放った。周囲の男性たちが、ヒソヒソと笑う。
「ホントかよ?」
「またまた、大口叩いちゃって」
男はそんな声など意にも介さず、私に優雅に一礼すると、おじさんの持っていたケーブルをスッと奪い取った。
「いいか、接続には美学がある。完璧な手順と、完璧な接触。それがなければ、電気は完璧な仕事をしてくれない」
流れるような、それでいてどこか芝居がかった手つきで、彼はケーブルを繋ぎ直していく。カチリ、カチリ、と響くクリップの音が、やけに心地よく聞こえた。
「よし。回したまえ、レディ」
ウインクと共に放たれた言葉に、私は半信半疑のままキーをひねった。
──ブルルルルンッ!
一発だった。力強いエンジンの鼓動が、私の足元にまで伝わってくる。
「おぉぉー!」
「すげぇ!かかった!」
周りから歓声が上がる。男はボンネットを静かに閉めると、サングラスの奥から私を見てニヤリと笑った。
「ほらみろ!一発だ。PERFECTだろ?」
呆気にとられていた私は、はっとして車から降りた。
「あ、あの!本当にありがとうございました!助かりました!」
何かお礼をしなくては。私は慌てて買い物袋を漁り、今日一番立派だった、緑の濃いブロッコリーを取り出した。
「これ!買ったばかりのベジタブルなんですけど、お礼です!どうぞ!」
勢いよく差し出すと、男は一瞬、キザな表情を崩した。サングラスの奥の口元が、はにかむように少しだけ緩む。それは、完璧(パーフェクト)とは程遠い、とても人間らしい照れ笑いに見えた。
「フッ…礼など不要だ。PERFECTな善意に、対価は求めん」
彼はそう言いながらも、どこか嬉しそうだ。その一瞬の素顔に、私はますます彼に興味を惹かれた。
「でも…!せめて、お名前だけでも教えてください!」
私がそう食い下がると、彼はハッとしたように表情を引き締め、再びいつもの彼に戻った。夕日を背に受け、そのシルエットが濃くなる。
「名か?」
一拍おいて、彼は人差し指をスッと立てた。
「セルだ。PERFECTセル。じゃあな」
そう言い残すと、彼はピカピカに磨かれた黒いスポーツカーに乗り込み、夜の帳が下り始めた駐車場を颯爽と去っていった。
残されたのは、かかったばかりのエンジン音と、私の手に残されたブロッコリー。そして、「…なんだ今の」「マンガのキャラかよ…」と呟き合う優しい男性たちだった。