幻肢痛

成瀬 愁

幻肢痛

日記、というのは、日々を生きるひとたちの残す足跡のようなものでしょうか。だとすれば、日々に流されるだけの私には日記は書けない、ということになります。いえ、取り残されてすらいるかもしれません。


イチョウを見に行きました。休日でしたが、混雑という感じはなく、ちょうど一時間ほどで一周できるような、ほどよい公園でした。子供たちは雄叫びをあげ、老夫婦はよく笑います。

イチョウの、そっけなさが好きです。情に訴えるような熱量はなく、それでいて誰を拒むこともしません。何も言わずに散っていきますが、床にはふかふかのカーペットを敷いてくれます。二人掛けのベンチに腰掛けて眺めていると、「いてもいなくてもいい」と、そう言われている気がしました。


朝起きて、仕事に行く支度をします。シャワーを浴び、髪を整えシャツを着ます。着るものに迷うことは、ありません。先週着たものに、また袖を通すだけです。

外に出ると、冷たい空気が襲ってきます。そういえば久しく、秋の匂いを感じていません。ということは、冬になったのでしょうか。

冬は、嫌いです。夏が遠いし、あたたかく無いからです。たしかに、冬に感じる温もりは特別ですが、特別のない冬が、あまりにも独りで、鋭くて、だだっ広いのです。そうしてみると、冬が好きな人は幸福なように思えます。特別を作れる人なのだから、守れる人なのだから。さて、職場が近づいて来ました。心は鞄に仕舞います。


一人で生きるのが、少しだけ上手くなりました。いまでは行きたいと思えた場所に、一人で行くことだってできます。今日は湖の見える神社に行きました。生憎の天気で、霧も濃くでていたので人はあまり居ませんでしたが、かえってそれが心地よく、ゆっくりと歩くことができました。休憩が得意なことは、今でも変わりません。休めそうな場所があると、積極的に立ち止まり、一息つきます。ただ昔ほど長居しなくなったのは、私がせっかちになったのでしょうか。

こうしてみると、案外自分が自由なことに気が付きます。時間とお金があればある程度どこへだって行けるし、美味しいものも食べられます。夜遅くに帰っても叱る人もいませんし、大人とは思っていたより自由なものなのかも知れません。

しかしもう一つ気づくことがあります。本当は、自分にはほんとうに行きたい場所のひとつだって、ないのです。


最近、夜が短くなりました。仕事が終わり、家へ帰ると意識が朦朧とし、ふと気がつくといなくなっています。以前は安心させてくれる友でもあり、私を深海へ追い込む、憎き宿敵でもありましたが、こうなるとやはり寂しく思います。ただ、今夜は長居をしてくれるみたいで、ストックしてあるウイスキーで乾杯をすると、たいへん楽しい気持ちになりました。この瞬間だけは、虫の音も人の声も、すべて聞こえなくなるのです。

世の中は、わからないことが、おおすぎます。未来はわかりません。出世も成功も、わかりません。幸せの正体も、わかりません。絶望なら、知っています。こんなことを考えているうちに私は、明日の方角さえわからなくなりました。


私はいま、泣いているのでしょうか。頭が追いつくより先に、視界が歪んでいきます。やがて一滴の雫が唇に辿り着くと、しょっぱい味が甘かった口の中に染みてきます。甘い、メロンパンの、そう、メロンパンが、美味しかったんです。至って普通の、コンビニで買ったメロンパンが、とても美味しくて。

それを伝えたいと想ってしまったのが、どうしようもなく、貴方でした。

もう遅いと、耐えきれなくなった感情は、崩壊したダムのように流れでてゆきます。貴方はまだ、イチョウの葉が好きなのでしょうか。冬を好きでいるのでしょうか。人混みが苦手で、すぐに休憩したがるのでしょうか。寂しくなった夜に、誰かに電話したりするのでしょうか。メロンパンの砂糖を頬につける癖は、治ったのでしょうか。

嗚呼、貴方と一緒にいるはずだった、あるはずの無い未来の欠片たちが、心に刺さっては痛む。悼む。


また一つ、歳をとりました。月日のみ流れ、心は取り残されてゆきます。師走の夜、静寂の音とため息ひとつ。いましがた、傷跡は仕舞っておこうと思います。

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