第5話 静かな生活
支援団体から仕事の話が出たのは、施設での生活が長くなったころだった。清掃や倉庫作業、短時間の事務補助。特別な技能はいらないが、継続することが前提の仕事だった。
「実家に戻るより、一人で暮らしたほうがいいかもしれませんね」
医師は、診断を下すときのような口調でそう言った。感情を交えない言い方だったが、その言葉はTの中に静かに沈んだ。家庭に戻っても改善は見込めない。それは、責めでも判断でもなく、事実だった。
アパートは古く、駅からも少し遠かった。六畳一間、キッチンと風呂は狭く、窓から見えるのは隣の建物の壁だけ。だが、そこには誰の視線もなかった。引っ越しの日、両親は来なかった。忙しいから、とだけ伝えられた。Tは、その理由を深く考えなかった。
荷物は少なかった。服と、最低限の生活用品。大学時代のノートや教科書は、処分してきた。もう必要ない気がしていた。
仕事は、きつくはなかった。朝起きて、決まった場所に行き、身体を動かし、帰る。失敗すれば注意されるが、人格を否定されることはない。評価は単純だった。
「今日はできていました」「明日は、ここを気をつけてください」
それだけで、話は終わる。Tは、その簡潔さに救われていた。そこには、「優秀であれ」という前提も、「変わらなければならない」という圧もなかった。
しばらくのあいだ、定期的にカウンセラーとの面談があった。部屋の一角に椅子を並べ、生活の様子を話す。
「困っていることはありますか」
Tは、考えてから答えた。
「……特には」
嘘ではなかった。困っていない、というより、期待していなかった。
夜、アパートに戻ると、部屋は静かだった。テレビをつけなくてもいい。誰かに合わせて生活リズムを整える必要もない。その静けさの中で、Tは初めて、自分の呼吸に意識を向けることができた。息をしている。それだけで、今日は終わっていい。
ギャンブルのサイトを開きたくなる夜もあった。薬のことを思い出す瞬間も、消えたわけではない。だが、手を伸ばす前に、少しだけ間が生まれるようになっていた。
「今日は、いいか」
そう思える日が、わずかに増えた。それは、勝利でも回復でもなかった。ただの保留だった。
ある休日、朝起きてからTは近所を散歩した。特に目的はなかった。道端の花壇、コンビニの前の自転車、遠くを走る電車。世界は、相変わらず動いていた。自分がいなくても、問題なく回っている。その事実は、以前ならTを追い詰めただろう。だが今は、少し違って感じられた。
――いなくてもいい。
その言葉は、Hの声を思い出させた。だが、以前のような鋭さはなかった。いなくてもいい、ということは、いなければならない場所もない、ということだ。
アパートに戻り、窓を開ける。風が入ってくる。カーテンが揺れ、埃の匂いが薄れる。Tは、床に座り込んだ。特別な感情はなかった。満足でも、希望でも、絶望でもない。ただ、ここにいる。
Tは思った。
――もしかしたら、これが自分の人生なのかもしれない。
大きな成功でも失敗でもない。完全な回復でも堕落でもない。ただ、今日を生きて、明日を迎える。その感覚は、はっきりしなかった。輪郭は曖昧で、とらえようとすれば逃げる。
そんな不確かさの中で、Tは初めて自分自身の時間を掴んでいるような気がしていた。
夜になると電気を消し、布団に入る。スマートフォンは手の届かない場所に置いた。眠りに落ちる直前、Tは、ほんの一瞬だけ、こう思った。
――明日も、散歩してみよう。
それは誓いでも決意でもなく。ただ静かな、自らの選択だった。
主体離脱 @AIokita
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます