薬指

@asobukodomono

薬指

 昼下がりの時分だった。薄汚れた緑色の車で砂漠を横断していた。その車の前を、妻が運転する、やはり埃まみれの青い車が走っていた。そして、どういう拍子だったのか、私が運転する車は妻が走らせている車の右側ドアに追突した。二台とも派手に横転した。

 私は大地の上に放り出された。体は宙を舞い、背中はしたたかに打ちつけられた。砂漠といっても、固く乾いたガチガチの地面だったので衝撃がひどかった。苦しくて、横になったまま息ができなかった。

 しばらくして肺に新しい空気が入ってくると、ようやく声を出すことができた。

「──聡美」

 かろうじて妻の名前を呼ぶことができた。妻がどうなっているのか心配でたまらなかった。呼びかけるのと入れ違いに、頭上の、抜けるように青い空が今さらのように目の中に飛び込んできた。目の焦点が合わなくなるような、雲ひとつない、底知れない青さだった。

「あなた──」

 かすれた声が聞こえてきた。弱々しい声に胸が痛んだ。しかし、ともかく聡美が生きていることがわかった。私は安堵した。神様──というものがいれば──に感謝の気持ちが溢れてきた。

「大丈夫か。どんな具合だ」

 聡美の声が聞きたかった。

「──どうして車をぶつけたの。下手クソ。助手席に大人しく座っていればよかったのに」

 私は驚いた。驚きのあまり、わずかに残っていた記憶もほとんど吹き飛んだ。いきなり目の前に現れた聡美の車の右側ドアだけが、脳裏に鮮明に蘇ってきた。

「待ってくれ。僕の運転が下手だったら、こんなもんじゃすまなかったよ。君のせいだろう」

 今さらこんなところで言い争いをすることに何の意味もないのはわかっていた。だが、間違ったことをそのまま承服することは、私の性格上できなかった。どっちが正しかったかなんて、今さらどうでもいいことなのに、条件反射のように反論した。聡美が一層興奮するのは、わかりきっていたのに。

 私は体を起こそうとしたが、キリで刺されるような痛みが体を貫き、仰向きに倒れた。

「だいたいあなたが、二台に分乗して行こうなんて言うから、いけなかったのよ」

 案の定だった。しかし、言うことには、一理あった。分乗するのは私が提案したことなので、頷くことしかできなかった。もっとも、その提案に聡美が一も二もなく同意したことも事実だった。そもそもが、

(あ〜あ、ずっとあなたと同じ車の中にいるなんて嫌だなあ)

 と、聡美が私に聞こえるような声で呟いたのが発端なのだ。いや、わかっている。それに忖度してしまった私の気弱さが悪いのだ。彼女は、思ったことを口にしたに過ぎない。

 私は気を取り直し、言葉を続けた。

「それで具合はどうなんだ。心配なんだよ」

「バカね。答えたくないから言わなかったのに。意識しちゃうじゃない。痛い。痛いわ。本当に痛い」

「どこが痛いんだ」

「だから、意識したくないって言ってるじゃない。足よ。右足」

「わかった。すまなかった。君の気持ちに寄り添えなかったよ」

「遅いわよ。もういいわ。何でもいいから話をして。痛みを忘れるぐらい、何でもいいから話をして」

 いざ、そう言われると何を話していいのかわからなかった。聡美を夢中にさせる話なんて私にできるのだろうか。彼女が韓流ドラマをよく見ているのは知っていたが、私は、そういう方面には不案内だった。そして、彼女と話を合わせるためだけに韓流ドラマを見るのは、さすがに苦痛だった。ちっぽけなプライドが邪魔をしたせいもあるだろう。今はそのことを少し後悔している。

 ともかく私は焦った。

「あなたはどうなの」

 妻が先に口を開いた。

「痛いよ。でも、君に何を話せばいいのか考えていると、痛いのをすっかり忘れていたよ」

「──もういい」

 不貞腐れたような声で聡美は言った。その理由が、痛みを抱えている私をさらに疲弊させるのはよくないと考えたからなのか、それとも、痛みを感じているのがどうやら彼女だけになってしまったので腹を立てたからなのか、それはわからなかった。単にどうでもよくなったのかも知れない。その後は黙ってしまった。

「ごめん」

 私は意気消沈してしまい、それ以上何も言えなかった。

 ふと、私は内ポケットにスマホを入れていたことを思い出し、取り出した。だが、アンテナは一本も立っていなかった。



「それで、痛みはなくなったわけ?」

 聡美の声だった。

「何とか大丈夫。気にしてくれるのか」

「ただの質問よ。私は、こんなところで一人になりたくないの」

「そうか。そうだよね」私はそれ以上、何も言うことができずに口を閉じた。だが、しばらくすると沈黙に耐えられなくなってきた。それに、静かに横になっていると痛みも和らいできて、余裕ができてきた。「ところで、今さらだけど、どうして砂漠を横断しようなんて思ったの」

「言ってなかったっけ」

「僕が君から聞いたのは、どうしても砂漠を横断してみたい、ってことだけだよ」

 聡美は再び黙り込んだ。何か考えているようだった。私は聡美が返答するのをじっと待った。

「私、乳がんだったの。ステージⅣ」

「嘘だろう? どうして今まで教えてくれなかったの」思わず声が大きくなった。「治療はどうなってるの。そんな大変な状態なのに、どうして砂漠になんか来たんだ!」興奮して叱責するような言い方になってしまった。

「こんな状態だからよ」聡美は、険のある私の声を無視するように、淡々と言葉を続けた。「私、治療をしたら治るのかな。治ったとしても、砂漠を横断できるほど体力は回復するのかな。やりたいこともできないのに、ただ生きているのなんか嫌よ。それじゃ、生きている意味なんてない。私、癌だって知ったとき、無性に砂漠に行きたくなったの。今ならまだ行ける。そう思ったら居ても立ってもいられなくなったわ。治療なんて冗談じゃない」

「そんな」

 私は絶句した。何と返答していいのかわからなかった。治療から子供のように逃げ出そうとする聡美に腹は立ったが、それと同時に、どんな時でも生を満喫しようという彼女の強い姿勢に圧倒されてもいた。私は、その狭間に立って言葉を失っていた。どちらが正しいのか、この場でそれを図る物差しが私にはなかった。

 ともかく彼女のために、いったい今私に何ができるんだろう。どんなに慰めの言葉をかけても、それはただの気休めにしかならない。そして、気休めや同情の言葉を聡美が大嫌いなのは、これまでの生活でよくわかっていた。

 せめて、どうやったら治療を受けてくれるのだろうか。いや、この砂漠の横断が成功したら、きっと治療を受けてくれるに違いない。聡美は腹を立てているだけなのだ。突然、癌だなんて言われて。しかも、ステージⅣだ。だけど、もうその怒りも収まっているはずだ。だから、大切なのは、どうやって今のこの危機を脱するかだ。この危機を脱しさえすれば、彼女は治療を受けてくれるはずだ。そうすれば、全ての事態は好転するはずだ。

「あなたを巻き込んでしまったわね」

 彼女がポツリと言った。

「そんなことはないよ。それより、君がそんなに大変なことになってるなんて、気がつかなくてごめん」

「やめて、そういうの。私があなたに話してなかっただけなんだし」

「それは、そうだけど」

「だから、やめてって。面倒くさいなあ。こういうことになるから、隠してたのよ。あなたに関係ないでしょう」

「そうか。それもそうだね」

 あなたに関係ない、か。彼女の言葉は、ヒヤリと私の心を切り裂く。

 結婚した当初はこんなことはなかった。きっとこれまでに、私が何度も彼女を絶望させたからだろう。世の中の多くの夫たちがそうであるように。彼女は私に期待することをあきらめ、私に頼ることなく、一人で生きるようになった──。

『砂漠の砂を金に変えるプロジェクトなんてありえない。そんなものに貯金をつっこむなんて、頭がおかしくなっていたとしか思えないわ。どうしてあの時、私があなたの言葉を信じたのか、今でもさっぱりわからない』

 聡美は、かつて吐き捨てるように、そう言った。



 私はゆっくりと体を起こした。油断するといくつもの破片に割れてしまいそうな心と体を愛おしむように、慎重に立ち上がった。

「あっ、つ」

 それでも刺すような痛みが走った。

 周囲を見渡すと、砂とわずかな緑と、遥か遠くに霞む地平線しか見えなかった。大地は果てしなく広がっていた。どこか逃げ込めるような、助けを呼べるようなオアシスがないだろうか。そう思って目を凝らしても、期待できるようなものは何も見つからなかった。それにしても、聡美はどこにいるのか。

「何を見てるの」

 聡美の声がした。彼女は、横転した車の陰にいたのだった。声がそこから聞こえてきたので間違いなかった。

「そこにいたんだね。オアシスが見えないかと思って」

「無理よ」諦めたような声だった。「それより、車は動くの?」

 そうだった。何よりそれが一番の問題だった。エンジンはかかるのだろうか。

 私は、聡美に促されるまま、そばにある横転したままの車に手をかけた。だが、その瞬間、絶望感に支配された。大地の凹みにガッチリ捕まっている。倒せる感触が全くなかった。びくともしない。しかも、この車のエンジンが動くことだけが、私たちの命綱であることは間違いなかった。何とか助かる方法はないのだろうか。腕組みをして、しばし考えた。

「あの、足の調子はどうだい」

 私は恐る恐る聡美に尋ねた。

「よくないわ」

「ひっくり帰った車を元に戻したいんだけど」

「だから、どうだっていうの」

「申し訳ないんだけど、君にも手伝ってほしいんだ」

「無理よ」

「車を動かせないと、二人とも死んじゃうんだよ」

「どうせ人間、いつかは死ぬのよ。それに私は、さっきも言った通り、もうダメ」

「そんなことないって。日本に戻って治そうよ」

 聡美はそれ以上、返事をしなかった。

 私は覚悟を決めた。車に置いた両手に力を入れ、足を踏ん張った。

「うっ」

 あばら骨のあたりに電気が走った。思わず崩れ落ちそうになった。だが、両手で車の端を掴んでいたので、何とか転倒しないですんだ。私は顔を上げた。ふと思い出したことがあった。

 それは、以前、日本で心臓マッサージの講習を受けた時に聞いた言葉だった。

『倒れている人の呼吸が止まっていたら、両手で胸骨を押して五センチぐらい凹ませます。救急隊員が来るまでそれを繰り返します。あばら骨が折れることもありますが、それで死ぬことはありません。その場で当人が息を吹き返して、痛っ、てあばら骨が折れたことを愚痴りながら、歩いて病院へ向かうこともあるぐらいです』

 そうだ、その通りだ。ヒビや骨折ぐらい何だ。大丈夫だ。私は、オレたちは、大丈夫だ。

 息を大きく吸い込んだ。両手を車の端に置いたまま、その両手に力を込め、もう一度足場を確かめた。

「ふんっ」

 足を踏み込んだが動かなかった。だが、手応えはあった。遮二無二押し続けると少し傾いた。

「ぐっ」

 また、あばら骨付近に電気が走ったが、今度はアドレナリンが大量に出始めたのか、なんの問題もなかった。そのまま、頭の中が真っ白になるまで力を振り絞ると、ついに、横たわっていた車は、ぐらりと傾き、どおんっと音を立ててタイヤが地面を噛んだ。

 私は息を整えると、すぐに運転席側に回った。刺さったままのキーを捻った。

「──…」

 何度も捻った。だが、車は何の反応も示さなかった。失望のあまり、そのまま、へたり込んでしまいそうだった。あきらめて今度は妻の車の方へ足を進めた。



 車の裏に回ると、聡美が横になっていた。乾いた土の上に、愛する聡美がぐったりとして横たわっていた。近づくと、気配を察したのか目を開けて、視線だけで私を見た。切れ長の目には生気がなかった。私は、ゆっくりしゃがむと、聡美の額から目にかけてかかっていた髪の毛を指で払った。聡美はその時、目を瞑っただけで、私の余計なお世話を拒むことはなかった。それほど弱っているのだ、とわかった。涙がこぼれそうになった。

「私の車は、どう?」

 聡美はもう一度、目を開けると、今度は優しげな視線を私に向けた。私は無言のまま頷いて、聡美の運転していた車に向き直った。

 聡美の車を元に戻すのは、私の車と違って簡単だった。タイヤが大地を踏む時の音も、ぼすん、と他愛なかった。だが、キーを捻っても反応がないことは同じだった。私は、聡美の方を見て、両手で小さくばつ印をつくった。

「もうお終いね、私たち」

「そんなことはない」

「これからどうするの」

 聡美は、空を見上げたまま言った。その視線の先にある空は、さっき私が横たわったまま見つめた空とは違って、夕刻の藍色を宿していた。

「君を背負って砂漠を横断するよ」

 笑顔で応えた。

「笑えないわ」

 聡美は、私のこういうセンスがないくせにユーモアを見せようとするところにも愛想が尽きたのだろう。

「水、飲むか」

 聡美は無言でうなずいた。私は、車に戻り、しまい込んでいて無事だったポリタンクから水を汲んで聡美の元に戻った。

「起き上がれるか」

 やはり無言のままで首を横に振った。私は聡美の後ろに回り、彼女の体を起こした。全く力の入っていない、ぐにゃりとした体は重く、温かかった。その温かい体を支えたままで、水を入れたコップを渡した。彼女はそれを受け取ると、一口だけ飲んで私に返した。

「きれいねえ」

 彼女は、今さらのように、そう呟いた。聡美の両眼が、首筋を真っ直ぐにしたまま、地平線に沿って左右へ揺れ動いた。彼女の顔を横から見ていたので、眼の動きでそれがわかった。

「そうだね。来てよかったよ」

「もう思い残すことは、何もないわ」

「何言ってんだ。世界中には、他の砂漠もいっぱいあるじゃないか」

「砂漠はもういい」

 その言葉に私は笑ったが、彼女に笑う気配はなかった。

「じゃあ、早く日本に帰ろう」

「──あなたは、何か事故があると元気になるのね」

「どういうこと?」

「そのままよ。昔、やっぱり私が運転していて、車をぶつけられたことがあったじゃない。あのとき、あなたはすごくテキパキ後始末をしたわ。結局車は全損になって中古車を買い直すことになっても、愚痴一つ言うことなく、仕事の合間を縫ってディーラーを回ってた。私の細かい注文にも配慮しながらね。私にはとてもできない」

「そうだったかな」

「そうよ。何かトラブルがあると、あなたは溌剌として元気になるのよ。でも、私とデートする時は本当にダメ。別人」

「そうだっけ」

「いつも、ぼんやりとしてたわ。ドライブに行っても全然楽しそうじゃない。私もがんばったけど、ずっと嫌な気持ちだった。無理して付き合ってるんだろうな、ってのがありありとわかる」

「信じてくれないと思うけど、決してそんなことはないんだよ。僕は僕なりに楽しんでいたんだ。だから、それを非難されるのが辛かった。でも、楽しそうに見えないってのは、本当なんだと思う。僕にも、どうにもならないんだ」

「言ってることがよくわからないわ。いっそ浮気してくれたらいい、ってあなたに言ったの覚えてる?」

「覚えてるよ」

「あなたといると、自分を責めてしまうのよ。私が悪いのかって。他の女と浮気してるんなら、そのせいなんだって納得できるじゃない」

「だから、そんなことはないって。何で理解してくれないのかな」

「もう、いい。結局、あなたと一緒にいても楽しくないのは変わらないんだから。それに、最近はずっと別々に行動するようになってたんだから、いいじゃない」

「そうだね。だから今回、君が砂漠の横断に行こうって誘ってくれたのは嬉しかったよ」

「砂漠は、私一人じゃ無理だから」

「わかってた。それでも嬉しかったんだ」

「──で、浮気はしなかったの?」

「してないよ。というかできなかった」

「どういうこと?」

「機会はあったけど、最後の最後で誘わなかった」

「勇気が出なかったのね。でも、よかったじゃない。恥かかなくて済んで。勘違いだったのかもしれないわ」

 私は返事ができなかった。私を馬鹿にしようとしているのか、それとも強がっているのか、どっちなんだろう。私は、話の向きを変えることにした。

「ところで、君の方は、浮気とかしたことなかったの?」

 とうとう訊いてしまった。これまで、どうしても口に出せない話題だった。自分で訊いておきながら、胸がざわついた。彼女の白い肢体に覆い被さる男の姿が思い浮かんだ。

「どっちだと思う?」

 聡美は、突然私に顔を向けた。目の奥が輝いていた。

「わからない」

 私は頭を振った。

「どっちがいい?」

 聡美は重ねて訊いてきた。聡美の珍しいしつこさに驚いた。彼女は、とても生き生きとしていた。その口振りは、興奮している、と言ってもよかった。

 私はどう答えたらいいのかわからなかった。私のような人間といることで彼女がつまらない思いをしているのなら、彼女が浮気をしても仕方がない、と思えるのだった。彼女の意思と自由を大切にしたかった。たとえそうだったとしても、聡美を責めることなどできない。聡美は今、一体どんな答えを求めているんだろう? まず、それを考えた。だが、それはわからなかった。私は、苦し紛れに、

「ない方がいいに決まっているだろう」

 と言葉をひねり出した。

「つまらない答えね。あなた自身の感情はないの」一転して、人形のような声音だった。「もっと楽しい人だったらよかった」

 胸が苦しくなった。彼女の捨て台詞に、私は何も反応することができなかった。

 どのみち、どちらを答えてもこうなるのだ。罠のような彼女の問いかけに、私は怒るべきなのだろうか。いや、私に怒る資格がないのは、はっきりとしていた。彼女は決してわざと私に罠をかけたわけじゃない。彼女は、ただ私から、はっきりと気持ちのこもった言葉が聞きたかっただけなのだ。彼女が求めていたのは、たったそれだけだった。それなのに、それだけのことが私にはできなかった。私も何らかの気持ちを演じることはできたかも知れないが、それは嘘だ、と思った。彼女に嘘はつきたくなかった。

「──あるわよ。一度 」

 唐突に聡美は言った。



 すぐには彼女が何を言ったのか理解できなかった。だが、浮気のことだとわかると、首筋の血が逆流するような気がした。

「そうなんだ」

 声が震えそうだったが、努めてそれを表さないようにした。

「とってもよかった」

 目元は無表情だったが、口元は微笑んでいた。私は、今度こそ頭が真っ白になって何も答えることができなかった。何か言おうとしても、具体的な言葉になる前に、心の奥底で言葉の種が腐ってしまう。私は、無駄に唾を飲み込んだ。

「どうして何も言わないの?」

「いや。言えなくて」

 夫婦のどちらかが一度や二度浮気するなんて、そう珍しい話ではないはずだ。いくらでも聞く話だ。だが、そうは言っても、そんなこととは無縁の夫婦だって珍しくはないだろう。大多数の夫婦は、心の中でモヤモヤを抱えながらも、結婚後は目の前の相手一人だけで人生を終えるのではないか。無意識のうちに、私たちはそんな夫婦なんだと思い込んでいた。全ての夫婦が、ネットや新聞の人生相談欄に登場するような夫婦であるはずがない。

「束縛する気もないのなら、結婚なんてしなきゃいいのに」

 聡美が呟いた。

 私はその通りだと思った。だけど、それはできなかったのだ。

「君となら、前に進めると思ったんだよ」

 これが私の言える精一杯だった。二人ともそれきり黙ってしまった。

「ごめんね。もう、あなたを傷つけるようなことも、なくなるから」

 聡美は、不意に穏やかな声で言った。

「何を言ってるんだよ」

 これ以上考えても仕方のないことだった。それに、さっきの話は、聡美が私を傷つけるためについた嘘のような気もしていた。私から生きた反応を引き出すために。私にとって大切なのは、彼女が以前に何をしたかということよりも、今、彼女が私と一緒にいるということだと今さらながら思い至った。

 私は気を取り直した。覚悟を決めて、今日はここで野営することにした。車から資材を取り出すと、テントを張った。思ったよりも体が動くので驚いた。一段落つくと、聡美に声をかけた。

「寒くなるよ。テントに入らないか」

「もう少し、ここにいたい」

「わかった。毛布を取ってくるよ」

「いいのよ。まだ寒くないから」

「これから気温が下がってくるよ」

「それより、起こしてくれない? 星が見えてきたわ。何だかたくさんありすぎて気味が悪い。日本で星がきれいに見えるのは、数が限られているからなのよ。地平線が見たい。まだ見えるかな」

 私は、さっきと同じように聡美の上半身を起こそうとした。だが、聡美は、今度は、むせるように咳き込むと、何か黒々としたものを大量に吐き出した。私は反射的に右手を出してそれを受け止めた。血だった。鉄の臭いがした。

「これって──」

「天罰てきめん」

 聡美は弱々しく呟いた。

「そんなこと、あるか!」

 思わず語気を強めた。

「あるのよ。今回の砂漠の横断だって、私一人じゃ絶対できなかった。あなたが根気よくいろんな手続きをしてくれたおかげよ。私ならきっと途中で面倒くさくなって投げ出してるに違いないわ。それなのに、こうしてあなたと一緒にいると、感謝することもなくてイラついてる。どうしようもない人間なのよ」

「君は、とてつもなく自分に正直なんだよ。それだけだ。僕にはできない。そして、僕は君のそういうところが好きなんだ」

 聡美は返事をしなかった。

「ねえ、お願いがあるの」

「なに」

「私を日本に葬って欲しい」

「変なこと言うなよ。君は自分の力で、僕と一緒に帰るんだ」

「お願いよ」

「無茶言うな」

 泣きそうになった。

「無茶じゃないわ。私の死体を引きずって持って帰って、なんてことを言ってるんじゃない。私が死んだら、左手の薬指だけを切り取って、それを日本に持って帰って欲しいの」

「どうして左手の薬指なの」

 私たちは、二人とも結婚指輪を付けていなかった。その指に特別な意味は、ないはずだった。それとも、聡美は私との結婚生活に何か見出してくれていたのだろうか。だから、左手の薬指を大切にしたいとでもいうのだろうか。

「──で、どうなの。私のお願いは聞いてくれるの」

「わかった。わかったよ。もしも、万一そういうことになったら、君の薬指を持って帰るよ。そして、日本でお墓に入れる。それでいいだろう。もう、この話は終わりにしよう」

「お墓には入れないで! 砕いて近所の川にでも流して欲しいの」

「えっ?」

「やっと一人よ。死んでしまえば、ようやく一人。それをずっと待っていたの」

 私は言葉を失った。彼女がつい今しがた、浮気を告白したことよりずっと衝撃だった。

「それが君の望みなの?」

「そうよ。あなたもその方がいいでしょう。──自由よ」

 聡美はキッパリと言った。私は、それまでの人生を突きつけられているような気がした。

「左手の薬指はね、心臓に、つまり、心に繋がってるの。顔も名前も記憶も全部無くして、ただ心だけ、生まれたところに戻りたい。それだけ」

 彼女はここまで言うと、ため息をついて目を伏せた。

「ねえ。やっぱり毛布を取ってきて」

「わかった」

 ロボットのように反射的に、だが、ゆっくりと立ち上がると、毛布を取って戻って来た。そのわずかな間に、聡美は昏睡状態に陥っていた。殴られたような衝撃で、私は、我に返った。

「聡美、聡美!」

 これまで呼んだことがないほど大きな声で、彼女の名前を呼んだ。私は気が動転し、さらに、何度も、聡美、と叫んだ。彼女はその声に応えるように、瞼をピクリと震わせたが、二度とその目を開けることはなかった。あまりに突然のことに、私は言葉もなく、その場に座り込んだ。彼女の呼吸を、そして、心臓の鼓動を確かめた。だが、どちらも止まったままだった。まだ、聡美の体は温かった。

『──自由よ』

 彼女の言葉が耳の奥でこだました。



 気づくと、病院のベッドの上だった。目的地のホテルのスタッフが、予定日を超えても到着しない私たちを心配して、探しに来てくれたのだった。彼女の遺体と、かろうじて息のあった私を回収してくれた。私は、一ヶ月間入院した後、約束通り彼女の薬指と一緒に帰国した。

 そして、昨日で帰国して一年が経つ。まだ、彼女の薬指は私とともにあった。彼女との約束を果たしていなかった。

「ふざけんなよ」

 彼女は、まれにキレることがあった。言葉使いが乱暴になる。きっと昨日までは、そんな風に私に対してキレていたに違いない。

 だが、それも、今日でお終いだ。今朝、骨を焼いて、砕いて、川に流した。これですっかり彼女は私のことなど忘れることができるだろう。そんな人間がいたという記憶さえ、彼女の中から跡形もなく消え去ってしまうだろう。ようやく、私は、彼女との約束を果たすことができたことになる。

 私の中には、まだ彼女の面影が残っている。はっきりとした感情を持てないのと裏腹に、想いが消え去るのは遅いらしい。

 まだ、彼女の夢を見る。



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