音も感情も、波だ。
静謐な月の世界には、音も感情も、時の流れさえも波立たない。そこは「静かの海」。鏡のように凪いだその世界に、ぴとんと落ちるひとしずくが、静かな波紋を広げていく――本作は、その瞬間を描いた物語である。
舞台となる月の世界は、変化や干渉を極端に排した場所として描かれる。均された静けさの中で、ただひとつ例外として存在するのが、かぐや姫の涙だ。その涙は、感情そのものを語るのではなく、感情が生まれてしまった「痕跡」としてそこにある。だからこそ、物語は大きく叫ばない。代わりに、触れてはいけないはずのものに、そっと触れてしまったときの揺れを、丁寧に追っていく。
音のない世界に落ちた一滴は、やがて静かな円を描いて広がっていく。
その波紋は大きな音を立てることも、世界を変えてしまうこともない。ただ、確かにそこに揺れが生まれたことだけを残す。
本作は、その揺れがどこへ届くのかを語りきらないまま、読者の前にそっと差し出される。
月の静けさと地球の手触りのあいだに生まれた余白が、読み終えたあとも、長く胸の内で凪ぎ続ける。