【短編】ハッピーメーター
渋紙のこ
ハッピーメーター
ハッピーメーターとは、車やバイクでスピードメーターが実際の速度よりも速い値を示す現象のこと。
「いもちゃん、知ってる?」
姉はすぐ何か新しい発見をすると、私に報告した。
私の姉は、私のことを妹だから「いもちゃん」と呼んだ。春子ではなく。
姉は、病室で、私にいっぱい話しかけた。私が大人になってから、姉の状況を想像すると、さみしかったのかなと。話し相手が欲しかったんだなと。
あの頃の私は、周りに追いつくのが精いっぱいで、姉の気持ちを想像する余裕なんかなかった。幼かったことだし。
「いもちゃんは、健康でいいわね」
そう姉は私に言った。
「お姉ちゃんも早く良くなって、ミツミ屋のいちごパフェ食べに行こうよ」
姉は、悲しく微笑んだ。
ある日、姉の病室にお見舞いに行くと、珍しく、夢中で、姉は何かを書いていた。
「お姉ちゃん何しているの?」
「あのね、今までの人生のハッピーな日とアンハッピーな日を数えていたの」
私は、よくそれを理解できなくて、無言で姉を見つめた。
「説明してほしい?」
「うん」
「私たち人間はね、ハッピーな日とアンハッピーな日を半分ずつ人生で割り当てられているの。いもちゃんは、今日はハッピーな日だった?」
「私はね」
と言い始めて、パパにお姉ちゃんには内緒で、ミツミ屋のいちごパフェを食べさせてもらったことを思い出して、うまく返事ができないでいると、お姉ちゃんは言った。
「お姉ちゃんはね、今日は、いもちゃんが来てくれたからハッピーな日なの」
「私が来ただけで?毎日のように来てるじゃない?」
「でも、来ない日もあるでしょ」
「うん」
「苦しい日が多いひとはね、生き抜いていくと、必ず幸せな日が来るのよ」
「絶対なの?」
私は、思わず言った。
「うん。絶対よ」
「ほんとうに苦しい経験をしている最中は、下を向いて歩いてしまうでしょ。そんな人が、蕎麦屋に入って、一番安いかけそばを注文しただけなのに、気持ち良く、いつもありがとうございますと店員さんに声をかけられたとするでしょ。それで心が晴れたりするものよ。その日は、その日にとってハッピーな日になるのよ」
「ふぅん」
私は、まだよくわかってなくて、生返事した気がする。
「だからね、一日でも長く生きなくちゃ。だって、アンハッピーな日が続けば、明日は、ハッピーな日になる確率も高くなるし、実際にそうなるのよ」
「ふぅん」
「ねぇ、いもちゃん、いもちゃんは、私を信じる?」
「うん」
元気よく私が返事したら、お姉ちゃんは、とても優しく笑った。
この日の何気ない会話が私はお姉ちゃんの遺言だと思っている。
あの日、私は完全にお姉ちゃんの味方だったから。
自分の話をするときに、みなが賛成するとは限らない。
興味を持つこと。お姉ちゃんは、病室にいることが多かったけど、なんでも興味を持って生きていた。
「いもちゃん、ママが怒るときの頭の構造について考えたことある?」
「ない」
そんなことを私に聞いたのは、後にも先にもお姉ちゃんだけだ。
昨日、ハッピーだった日が、今日、変わらないように見えて、つまらなく感じられるのは、私が動かなくても、地球が自転しているからなのだろうか。微妙な体調変化のせいなんだろうか。
お姉ちゃんと私の間には、信頼があった。だから、私は、お姉ちゃんといる時間をとても大切にした。
利害なんかじゃない。利害が一致するから、仲良くしたんじゃない。そんなことじゃない。何か得するから、お姉ちゃんに会いに病室へ行ってたんじゃない。
「心が通じ合ったひとのことは裏切れない」
とお姉ちゃんは言った。
だから、私は、お姉ちゃんが死んでも、お姉ちゃんと約束したんだ。今日、お姉ちゃんがいなくてアンハッピーに感じても、明日は、お姉ちゃんが私たちに残した笑い話を家族でしてハッピーな日になるかもしれないって。
だから、明日も楽しみに生きていける。
心配事のない日、ハッピーだと思う。
「いもちゃん」
今でもお姉ちゃんの声が私の耳に響く。
「なぁに?」
優しくしてくれたひとのことは、ずっと覚えている。その記憶は消えない。
そんなに優しいひとばかりでもないのも知ってる。
つらく感じる日が続いていると、ほんとうにお姉ちゃんがいったように、何気ないひとの優しさに触れただけで、幸せになれる。
きっとそっとした優しさに気づかないひとは、通りすぎるようなこと。
きっと私のハッピーメーターは、つらい日々によって、なんでもないことに過剰反応するんだ。他人にとってはなんでもないこと。
お姉ちゃんは、わかってたんだ。ハッピーを感じるためには、アンハッピーな日も必要だってね。
闘病で、つらい日々が続いていたから、私がお見舞いに行くだけで、お姉ちゃんは、ハッピーだったんだってね。
おつかれさま、お姉ちゃん。
これからは、私の心の中でずっと優しさを。
【短編】ハッピーメーター 渋紙のこ @honmo-noko
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