移り変わらぬもの

宵月乃 雪白

黄昏時の秋桜

 静かな教室でたった1人、絵を描いている子がいる。毎日毎日、誰もいなくなった放課後の教室でたった独り、絵を描いている。

 今日もそうだ。誰もいなくなった教室でたった独り、何かに取り憑かれるかのように真剣に『絵』という描き手の魂を現す作品を黙々と仕上げている。

『美術室で仕上げればいいのに』そう何度思ったことか。最初の頃はクロッキー帳にひたすら絵を描いているだけだった。けれど何月が経つにつれ、クロッキー帳からキャンバスに代わりシャーペンだけではなく筆などを使いだし色をつけていく。

 そうすると作業場も小さな机だけじゃ足りなくなってくるのに、一向に美術室に行こうとしない。

 もしかしたら美術部所属ではないのかもしれない。だけど、この学校の美術部は作業の邪魔をしない限り、誰でも入っていいはずなのだが……

「ねぇ」

 窓際に座って作業をしている彼女に教室の後ろの入り口で声をかける。けれど彼女は返事をすることはおろか、振り向く素振りの1つも見せず、私の声が聞こえていないという風に黙々とキャンパスに色をつけていた。

「なんで教室で描くの? 美術室の方が机、広くない?」

 少しずつ近づいていく。それでも彼女は見向きもしない。心も体も私を見ていない、見ようとしない。

「ねぇ」

 彼女の前に来たときだった。バチッとさっきまで合いもしなかった視線が合ったのは。

 長い前髪に隠れた吸い込まれそうなほど大きな瞳。私の奥底にある私が知らない私を見つめるかのような鋭い瞳に思わず目を逸らす。

「なんで目、逸らすの?」

「なんでって………」

 笑みをたたえた彼女の落ち着いた声が静かな教室ではやけに響いた。

 怖いから。納得できるような説明を持ち合わせていないけれど、なんとなく怖いから。奥底を見ているようで怖いから。笑っているその顔の理由が分からないから。

「怖いんでしょ?」

 そう分かっていてもなお、髪の隙間から見える視線は未だ私のほうに向いている。

「………別に」

「いいよ正直に言ってもらって。でもさ、怖いだけなら貴方の方が存在としては怖いんじゃない?」

 どこか嬉しそうで少し高くなった声。頬杖をつき、長い前髪がかすかに横へと重力に逆らい彼女の顔の3分の1が露わになる。白玉のような白い肌、日本人形のような真っ黒な瞳。まるで人形のようなその容姿に見てはいけないものを見てしまった。そんな恐ろしい気持ちになる。

 だからこそ彼女の言っている言葉が他の人が口にする言葉よりも重く感じてしまうのだ。その容姿のせいで。

「どういうこと?」

「さぁね。でもわたしはそっちの方が都合がいいから」

「だから、どういう─────」

「これ、あげるよ」

「えっ?」

 そう言うとずっと描いていた、教科書くらいの大きさのキャンバスを押し付けられるように手渡された。

 夕方の空を背景にしたコスモス畑。けれど描いてあるコスモスはピンクや白ではなく、黒いコスモスだけなのに妙に惹かれるものがあった。

「コスモス?」

「秋桜って書いてコスモス。自分で言うのもなんだけど綺麗に描けてるでしょ?」

 その言葉でふと何かが頭の中を掠めた。さっき彼女が口にした言葉をそのまま、私が誰かに対して真似するかのように言っている。うっすらと開いた蓋から中を覗き見るかのような感覚。はっきりとしたものは分からないけれど、ぼんやりとそれでいて輪郭だけははっきりしていた。

 長い黒髪の少女。今のような夕暮れの、誰もいない放課後の教室で面談するかのような座りかたでの取り止めのない話しの1つ。

「えっ………?」

「思い出した?」

 お人形さんのような見た目とは反対に常に周囲の目に過剰に反応していた子。絵を描くのが得意で、特に風景画が好きで。けれど美術部には所属しなくて、私と2人この教室で絵を描いていた。

「貴方が教えてくれたんだよ」

 おもむろに立ち上がる彼女。私たちの境界線となっていた机から身を乗り出し、キャンバスと一緒に包み込まれる両手。

「絵も勉強も人間関係も何もかも、貴方がわたしに教えてくれたんでしょ?」

 彼女の温度が指先から全身に広がっていく。

「ねぇ、どこまで覚えてるの?」

 大きく見開かれた目が少しずつ顔に近づいてくる。

「わたしのことだけ? それとも全部?」

 必死さに似た彼女の感情が瞳を通し、私の中へと入ってきて上手く体に力が入らない。

「あ、あなただけ………他は何も」

 何も覚えていなかったのだ。彼女に言われるまで文字通りの何も。自分がどうしてここにいるのか、自分は誰なのか、自分は一体なぜ目の前の彼女をずっと追っているのか。

 だけど彼女に自分が過去に言った言葉を言われ、彼女と過ごしていたという事実だけは思い出した。それでも他のこと、自分がなぜここにいるのか、誰なのかは未だに分かっていない。

「んふふ。そっかぁわたしだけかぁ、嬉しいなぁ。あっ思い出すのはわたしだけでいいよ」

 ずっと描いていた彼女の絵が、彼女の手によって鈍い音を立て床に落ちる。彼女の柔らかな頬に当てられた私の手は氷を握りしめたかのようにひどく冷たく、彼女のような温かさは持ち合わせていなかった。

「これからもこの先も」

 耳元で囁かれた言葉が頭にじんわりと広がっていく。

「大丈夫。あんなクズと違って、わたしはずぅーーーっと側に居てあげるから」

 彼女以外のことを何も思い出せないのに、胸が締め付けられた。呼吸が上手くできなくて身体中、叩かれたわけでもないのに痛くてたまらない。

「貴方が誰にも見えないとしても」

「………………」

「そんな顔しないで。大丈夫独りじゃない、わたしが居る。それだけでいいじゃん」

 引き寄せ、抱きしめられた身体はもう痛くなかった。彼女から匂う、お香のような柔らかな香り。怖かったはずの彼女から発せられた言葉が薬のように全身に広がり、私が彼女に抱いた恐怖をそれ以上の想いでかき消してくれた。

「ねっ!」

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