壁の中から
禍
壁の中から
1.
――
薄い布団を退けて、
今日は――雨か。
屋根を叩く雨音を聞きながら、寝起きの平佐は
雨ならば――大工の出番はあるまい。
今日は道具の手入れか、木彫りを作るくらいしかできぬだろう。
軽く伸びをして立ち上がると、平佐は床板を
土間に近づいたとき。
平佐は戸口に人の気配を感じてそちらに目をやった。
同時に、遠慮がちに戸を叩く音が聞こえた。
2.
隣に住む
雨の中、
目の前に座る老爺は顔を
いや――かまわねぇよじいさん。どうせ雨だろ、水に降られちゃ、大工の出番はねえよ。
それより――
それよりどうしたんだい、こんな雨の中。
平佐が問うと、顔を拭き終えた老爺は――なんとも形容しがたい表情で平佐を見ながら言った。
いやその、頼みてぇ事があってな――
頼み――
それだけで、平佐はなんとなく察したつもりになった。
目の前に座る老爺の伴侶が――これまた名も知らぬが、婆さんが亡くなったのはつい先日だったか。
格別
長い時を共にした者が居なくなり、やはり
老爺は気を落としていたようだった。
それでもここ数日は、力無くとはいえ笑った顔も見たような気がするが――
おおかた、気持ちの整理がようようついたのであろう。
家の
ああ、じいさんの頼みとありゃ、聞かねえわけにゃいかねえよ。どうしたい、力仕事で手が要るのかい――
平佐は、なんとなく吊るして干していた大根を見上げながら言った。
――この大根も、じいさんに貰ったものだったか。
――いや、そうじゃねえんだ。力仕事ぁ、もう終わったでな。
頼みたいのは――
老爺は困ったような、恥を忍ぶような顔のまま呟くように言った。
留守番なんだよ。
平佐は――
自分は今、大層
3.
壁に――埋めたのかい。
まだ乾ききってはいない土壁を横目に見ながら、平佐はそう問うた。
ああ、婆さんが――どうしてもと言うでなあ。
首筋を
そりゃまた――
尋常じゃないわな、と平佐は小さく
聞こえたわけではないだろうが、老爺は顔を上げて続ける。
老爺は乾ききっていない土壁を指差す。
――埋めてやったんじゃ。
大きく息を吐いて、平佐は老爺の示す土壁を見やる。
あの中に――婆さんが。
まあ、弔いといえば弔いか。
そう納得しかけたが――
いや、やはりこれは――
「送り方」としては、よくはねえだろ。
なあじいさん、そのな――
そう言いかけたが、平座は口を
本人がそれで納得してるんなら――
で、留守番なんじゃがな。
老爺の声で平佐は我に返る。
お、おぉん、留守番てなどういう――
いやあ、実はな、婆さんが死ぬ前から言うておったんじゃが――儂が側におらんと心配じゃ言うてな、その、返事をしてくれと。
返事――
婆さんがな、呼びよるんよ。
「じいさん、おるかい」っちの。それに返事をせんと、まあ家中揺れるわ鳴るわで
それでな、儂が少し出かけとる間にな、代わりに返事を――
平佐は――途中から聞いていなかった。
怖がるでもなく、
困っているだけの老爺の姿に――
平佐は背筋が冷える気がした。
4.
相変わらず、聞こえるのは
平佐が
老爺の家の土間に腰を下ろした平佐は、
上がり
平佐は少しばかり耳を
苦笑混じりに鑿研ぎの続きを始めた。
まあ、死人が呼ばわるわけはないわな。
老爺の話を聞いて、最初は驚いたものの――
平佐はすぐに
おそらく声は、老爺にだけ聞こえている。
何の
長い時を共にした老爺ならいざ知らず――
そうして、雨と鑿を研ぐ音に平佐の鼻歌が混じり始めた頃、ふと――
何かが聞こえた気がした
鑿を研ぐ途中の姿勢で固まったまま、平佐は耳をそばだてる。
生乾きの土壁は――見ないようにした。
恐る恐る目をやると――
5.
ああ、あのじいさんか。
うん、いや、俺も良くは知らねえよ。
ただなあ、長年連れ合ってた婆さんが逝っちまったろ、しょげた
おぉ、そうそう、そんな事言ってたなぁ、婆さんと約束したんだって効かねえんだからよ。壁ん中に
ああ、きちんと送り出してやらねえと――
婆さんに失礼だ、っつってな。
あん?ははは、そうだな、墓ん中ぁ、寒くねえかってじいさんが聞いたら、坊さんが言ったんだ。
逝っちまった方は、暑がりも寒がりもしないとよ。
そりゃたしかにそうだわな。
暑がりも寒がりも――
怒りも悲しみもしないわな。
え?おお、小せえが坊さんが弔いをやってくれてな。
だから壁は、ありゃじいさんの気を
できるだけの事はやった、って――じいさんを納得させるためによ。
今頃婆さんも喜んでんじゃねえか、墓の中ん方が居心地いいってな。
…おい、もう食わねえのか?
しっかり食っとかねえと、大工仕事ぁ
ああ、腹ぁ一杯なら、かまわねえけどよ――
6.
雨はとっくに止んで、虫の
囲炉裏の火に
虫の音の他には――
時折、薪が
じいさんは――こんな時に声を聞いていたのだろうか。
平佐は猪口を酒で満たす。
壁の中に、婆さんはいなかった。声を出す者など、最初から壁の中にはいなかった。
しかし――あの雨の日に聞こえたようなものは――
あの感じは――
猪口を口に運ぶ途中で、平佐は薄暗い板の間を見やった。
土壁は、闇の中に溶けて
その時
ふと――聞こえた気がした。
「――――」
口元に運んでいた猪口を、ゆっくりと
鼓動が、
そんなはずがねえだろ。
壁の中には――いないんだから。
いや、いようがいまいが。
声がするはずねえだろ。
――逝っちまった方は、暑がりも寒がりもしないとよ
「――、―かい」
全身から汗が噴き出す。
それなのに――寒くて仕方がない。
――怒りも悲しみもしないわな
ぱきり、と音がした。
返事をしなかったから鳴った――
そんなはずはない。
大工である平佐は知っている。
ぱき、ぱきり
家の
雨あがりの晴れの夜だから、音がしても不思議ではない。
ちっとも不思議じゃ――
「――ん、――?」
応えたら――いることになっちまう
闇の中に、呼ばわる者がいることになっちまう
ぱきぱきぱき
ああ、
応えなくては
でも応えたら
じいさんも、これに呑まれて
ぱきぱきぱきぱき
――ん、――かい――?
ぱきぱきぱきばきばき
ああ、居るよぉ――
水を打ったような静寂の中――大きく息を吐く。
家の中には、相変わらず――
虫の音だけが聞こえていた。
(了)
壁の中から 禍 @gajagaja
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