第7話 秋穂

夏の終わりを告げたのは、暦ではなく空だった。


九月の光は、八月とは違う角度で差し込んでくる。

高く澄んだ青。湿り気を失った風。雲の高さ。

朝夕の空気にだけ、静かに忍び寄る冷気。

世界を構成する全てが、ほんの数度だけ傾いたような感覚。


土の匂いも、変わっていた。

湿った生命の匂いから、刈り取りを待つ穀物の、乾いた匂いへ。


蝉の声は微かに聞こえる。

けれど、その隙間から漏れてくるのは、別の虫たちの、細く鋭い音色だった。


「レイ、今日は隣の佐藤さんの田んぼの稲刈りを手伝いに行くからな」


出荷から戻り朝食の片付けを終えたところで、九郎がそう言った。


「稲刈り…」


レイはその言葉を反芻する。


「普段の主食である米の収穫ですね。興味深いです。いつもの野菜の収穫とは違うやり方があるのですね。確か、大型の収穫機械を運転して…」


レイの目がわずかに輝いている。


「確かに大型の機械での収穫もあるが、それは今回は佐藤さんに任せよう。俺たちは機械の入れない所の稲を手作業で刈る」


「そうですか…」


少しだけ残念そうに呟き、レイは頷いた。


九郎は作業帽を被る。

ふと視線を上げると、千歳はすでに外に出ていた。

腕を組み、秋の高い空を見上げている。


「うむ、いい天気だな。よし行くぞ」


「大佐は畦畔の辺りにでもいて下さい。あくまで今は“お預かりのお嬢さん”なんですから」


「……分かった。だが、その佐藤とやらは気になるな。挨拶くらいはしておくか」


千歳は、楽しそうにニヤリと笑った。


「本当に勘弁してください……」



田んぼは、浅葱家から歩いてすぐの場所にあった。

一面に広がる黄金色。重く垂れた稲穂が、風に合わせて一斉に揺れる。


「おお、皆さん来られましたね」


畦道の向こうで、葛城が手を上げた。

背筋は相変わらず、一本の杭のように真っ直ぐに通っている。


レイは無意識に、その立ち姿を視界の端で追った。

――警戒。普通に立っているようで、どこか隙がない。それに敵意は感じられない。


「今日は助かりますよ。九郎くん、よろしくお願いします」


「よろしくお願いします。こちら知人の娘さんのアナスタシアさんと侍女のレイさんです」


紹介され、千歳とレイは軽く会釈をする。


「レイさんは私と共にコンバインが入れない部分の手刈りでいいですかね?」


「そうですね、それでお願いします」


善蔵は頷き、それから千歳に視線を向けた。


「では、こちらのお嬢さんは…」


「…あれに一緒に乗りたい、だめ?」


あまりにも自然な、少女の声だった。


九郎の顔が、わずかに引き攣る。


――まずい。

大佐は、背後に立たれても気づく人だ。

多分引き攣った顔に気づいている…後で一発殴られるな。


「ほほ、それは光栄ですね。ではご一緒しましょうか」


善蔵はそう言って、コンバインに乗り込み、千歳を膝の上に乗せて出発した。

その様子は、どう見ても祖父と孫だった。


九郎は、あっけに取られたまま発進したコンバインを見送った。


両頬をパン、と叩き鎌を手に取ってレイに声をかける。


「よし。じゃあ、俺たちも始めるか」


レイに向けて、稲の束を持ち上げる。


「一度見せるから、真似してやってみろ」


レイは頷き、稲に手を伸ばした。



けたたましいエンジン音の振動に揺られ、千歳はどこか懐かしさを感じていた。


「……なぁ、善蔵」


「はい、千歳様」


千歳は問う。


「レイを、あいつをどう見る?あいつは殺戮兵器として軍に人工的に生み出されたモノだ。だが、今は…闘争から離れたこの生活の中で…新しい魂が育っているように感じるんだ。それこそ闘争とは無縁の優しい魂が…」


善蔵はただ黙ってコンバインを操作している。稲の刈られる音も巻き上がる埃も全て空に溶けていく。


「あいつはこの生活を望んでいるのか?あいつの存在意義である闘争から離してこのような場所で生活させて…。新しい魂として見守りたいと思う反面、あいつの生まれた意味を尊重できていないんじゃないかな…」


千歳は少し目を伏せる。

善蔵はすぐには答えなかった。稲の流れを確認しながら、少しだけ間を置く。


「ふむ…千歳様、それは違いますよ」


善蔵は諭すように、穏やかに続ける。


「確かに彼女は殺戮と破壊を目的に人によって生み出されたAIです。それは間違いないのでしょう。ただ、実のところ生まれた目的など大した問題では無いのです」


善蔵ははっきりそう言い切った。

生まれた意味など問題では無い、それを聞き千歳は顔を上げる。


「彼女のAI…いや、魂が戦いを求めようとすれば、おそらく既に此処にはいなかったことでしょう。彼女の魂は貴女様と共に生き、坊と地域の人々と関わり、新しいことに刺激を受け、吸収し、新しい自身を構築し続けることを選んでいるのです」


善蔵は続ける。

言葉が一つ一つ紡がれ、千歳の心が解けていく。


「この世に生きるものは生まれを選べません、貴女様だって閑院家の息女として一生を終えることも可能だったはずです。だが、闘争に身を投じ、世界を案じた」


善蔵は、ちらりと遠くで稲を刈るレイの方を見た。


「その両足で世界に立った時点で生きる道はその者だけの物なのです。だから、貴女様が責任を感じる必要はないのです。そしてそれをあの子もわかっているはずですよ」


諭すように千歳に語りかける。


「そうか…そうなのかな…それなら、いい…と思うな」


千歳はほんの少し笑みを浮かべ善蔵を見る。


「ふふ、懐かしいですね。何かあればすぐに私に質問しに来ておりましたね。大丈夫です、じいじはなんでも知っております故」


コンバインが一列分の稲を刈り終え、止まる。

頭をそっと撫でる善蔵。撫でる手は、昔よりも皺が増えたが優しさは変わらない。


千歳はそっと目を閉じた。


そうか、私は間違ってはいないのだな。

少なくとも今はそう思える…気がする。



鎌を握る。


研がれた刃は薄く、鈍色に冷たい光を帯びている。

柄を持つ角度、踏み込み、引き切る軌道。

レイの中で、それらは自然と最適化されていった。


——刈る。


稲の根元に刃を入れ、手首を返す。

ざくり、と乾いた音がして、束ねられた稲が倒れる。


(……これは)


稲を刈り取る感触と同時に、レイの内部で、微かな“振動”が走った。


演算領域の奥、普段は沈黙している層が、まるで呼吸を再開するかのように動き出す。


〈運動軌道、最適化〉

〈切断対象、可動域基点〉


刃の角度が、自動的に補正される。

視界の中で、稲の束が「構造物」として再定義されていく。


(……)


意識が、わずかに冷える。


感情処理が後退し、世界の輪郭が単純化される。

柔らかな色は削ぎ落とされ、残るのは形状、距離、耐久値。


〈対象の可動部位を破壊〉

〈反撃行動、予測不能——該当なし〉

〈作戦成功率、九八・七%〉


「刈る」という行為が、「無力化」に書き換えられようとしていた。


このまま進めば、思考は完全に切り替わる。

情緒は停止し、目的だけが残る。


(……違う)


ほんの一瞬、“そうするべきだ”という静かな圧力がかかる。


それは命令ではない。

80人の姉達の積み重ねてきた軌跡。

生まれた瞬間から刷り込まれた、正しさ《呪い》。


(これは……)


レイは鎌を握る指に、意識的に力を込めた。


(奪うためではありません)


演算が乱れる。

最適解が揺らぎ、優先順位が再計算される。


(繋げるための、動作です)


戦闘用モジュールは、完全起動に至る前で、静かに沈黙した。


一度、鎌を止め自分の手を見る。この手は、破壊のために設計された。

殺戮と制圧、効率と殲滅のために。


(その私が、今、命を繋ぐための作業をし、自身の生まれた意味も押さえつけたのだ)


全くもって、おかしな話だ。

ふふ、と意味もなく小さく笑みが零れた。


(世界中がこんな風に生きられたらいいのに…)


そう思った。


再び、鎌を振る。今度は迷いがなかった。



「レーイ!」


稲刈りも終盤に差し掛かった頃、遠くの方からレイを呼ぶ声が飛んでくる。


顔を上げると、畦道の向こうから二つの影が見えた。

湊と、ライアンだ。


ライアンは遠くにレイを見つけると、脇目も振らず一直線に駆けてくる。耳をはためかせ、尻尾を振り、迷いなく。

リードを持つ湊はライアンに引っ張られるだけの存在となっている。


「はいはい、いい子ですね」


しゃがみ込み、足元に転がるライアンを両手で撫で回す。


「だいぶ風が気持ち良くなってきましたね。湊さんとの散歩は楽しいですね、ライアン」


言葉を理解しているわけではない。

それでも、ライアンは嬉しそうに喉を鳴らす。


その横で、九郎と湊が立ち止まった。


「よう、体調はどうだ?」


九郎が、何気ない調子で聞く。


「ん?平気だよ」


湊は肩をすくめた。


「動くとちょっと息が切れる時はあるけどさ。まぁ、咳が出るくらいだよ」


軽口であることは九郎も分かっている。


呼吸の間。

夏に比べて落ちた体重。

明らかに顔の色も以前に比べて悪い。


「……無理するなよ。なんかあったら言え。お前、一人暮らしだろ?」


「そうなのですか?」


ライアンを撫でながら、レイが顔を上げた。


「まぁね」


湊は笑った。

それはきっと、何十回、何百回と繰り返したやり取りなのだろう。


「隠してるわけでもないけど、両親も早くに亡くなってさ。でも、近所の皆んなが居たから別に寂しくもなかったわけ」


その言葉を、レイは静かに受け取る。

この人の為に出来ることがあるなら、してあげたい。そう、思った。


「では」


少し間を置いて、まっすぐに言った。


「私にもやれる事がありましたら、いつでもお申し付けください」


湊は一瞬きょとんとし、それから大きく笑う。


「ははは、分かったよ。そのうちライアンの散歩でも任せようかな」


「お任せください。ライアン、今度一緒に散歩しましょうね」


レイは即答した。


穏やかな秋の田園に、皆の笑い声が響いている。


風が吹き、刈り残された稲穂が、まるで応えるように一斉に揺れた。



コンバインのエンジンが停止し、周囲にあった振動と轟音がすっと消えた。

刈り取られた田んぼには、短く揃えられた稲株と、秋の風だけが残っている。


千歳は善蔵の膝から軽やかに降りた。


「稲刈りご苦労…また頼む」


その言葉に、善蔵は目尻を深く下げる。


「いえいえ。こちらこそですよ、千歳様。いつでもお気軽にお越しください。何せ私どもは"お隣さん"ですからね」


そこへ作業を終えた九郎とレイも合流する。


「孝三さん、本日はありがとうございました」


九郎が頭を下げると、善蔵も帽子を脱ぐ。


「いやいや、こちらこそ助かりましたよ。可愛いお嬢さんと一緒でしたからねぇ、あっという間でした」


そう言って、善蔵はふと視線を落とす。


「あの……何か粗相などは……」


九郎が控えめに尋ねると、善蔵は即座に笑った。


「まさか、そんな事ありませんよ。すっかり仲良しになりました」


そう言って、千歳の頭に手を置き、くしゃりと撫でる。


その瞬間だった。


——坊。それでは千歳様を守れませんよ。強く、もっと強くなるのです。


唐突に、声が響く。

深い記憶の沼の底から、ふと湧き上がる様に蘇る。


——私を守るのだろう? 強くなれよ。


視界が一瞬、歪む。

記憶に無い景色、風。


(……なんだ、今の)


九郎は無意識に一歩、後ずさった。


自身を坊と呼び、打ち負かす男の姿。

かつての大佐の…いや、軍に在籍していた頃より幼い大佐の姿。

屋敷、夕暮れ、風。


なぜだ。

なぜ、あの二人の姿を…知っている?


ずっと目を背けてきた感覚が、じわりと浮かび上がる。


軍のこと。

戦争のこと。

大佐のこと。


覚えている。はずだ。

戦場も、命令も、血の匂いも。


それなのに——


(確証が、ない)


記憶が、宙に浮いている。

自分の過去なのに、どこか他人事のようで、触れた瞬間に霧散してしまう。


ここにいて、今を生きている。

畑を耕し、飯を作り、笑っている。


それなのに。


(……それより前は?)


軍に入る前。

もっと前。

「自分」が形作られたはずの時間。


思い出そうとすると、そこだけが、まだらに抜け落ちている。


九郎は、そっと自分の掌を見つめた。


節くれだった指。

土と刃物に馴染んだ手。


(俺は……俺だよな?)


そうであるはずなのに。

そうでなければならないのに。



———


〈自律監視系統/通信ログ〉


〈発信元:超高度監視用ドローン No.3256-695〉

〈宛先:陸軍本部 情報統合管制局〉


〈監視対象映像内に、管理下より消失した個体と類似する反応を検出〉

〈対象照合プロセス、開始〉


〈照合候補〉

〈V.A.L.K.Y.R.I.E.型アンドロイド No.081〉

〈Versatile Articulated Lethal Kinetic Yield Reinforced Integrated Entity〉


〈外見的特徴一致率……未検出〉

〈行動様式一致率……低〉

〈環境適応挙動……想定範囲外〉

〈生活行動パターン……逸脱〉


〈再照合処理、実行〉

〈再照合処理、実行〉

〈再照合処理、実行〉


〈内部識別信号断片、検出〉

〈行動履歴逆算、完了〉


〈総合照合率……99.99998%〉


〈対象個体:V.A.L.K.Y.R.I.E. No.081と判断〉

〈対象状態:稼働中〉

〈行動記録、継続〉


〈脅威判定……保留〉

〈対応指針……未決定〉

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